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知識 vs. こころ

04.02.18(水)

私は著作や講演の中で「こころ」という言葉は,極力避けてきた,というより,使えない自分を感じている.「こころ」という言葉を口に出すことにわたし自身とても抵抗感があり気恥ずかしいものを感じてしまう.しかし一方では,利用者への思いやりにかけるのではないかと思われる取り組みにしばしば出会う.先日こんな場面があった.初めての臨床実習を終えた学生たちの報告会があった.学生から「心を動かされた」「患者さんとの間での心のつながりがとても大切だと感じた」などさまざまな「心」の報告があった.これにたいしてある教員からは,「心というような抽象的な言葉ばかりが目に付いた.知識の伴わない患者さんとの関わりはホンモノではない」というようなコメントが発せられた.その一言で,学生たちのこころは萎縮してしまったように見えた.
 この人が言うとおりかも知れない.「心」という言葉は確かに「やさしい」印象は持っているが,それ以上の深さを感じられないことも少なくない.私が「心」や「人生」という言葉を使うことができないのも,自分への自信の無さから来ているような気がする.知識をしっかりと身につけた上で心を育む.とても真っ当な考えである.
  しかし,本当にすべてがそのとおりと断言できるだろうか?自分を振り返ってみると,人との出会いがあり,その人の生き方や考え方に触れることで,こころを強く動かされたということが少なくない.その人ともっと密接に関わり合いたいと感じ,それが引き金になって猛勉強した記憶がある.
  心の動かないところには本当の生きた学びは生まれないのではないか,といま思う.
  教育場面に目をやると...学んでいる向こう側に,この知識は誰が必要としているものなのか.なぜ知っておかなければならないのかが置き去りにされたまま,ただひたすら知識の伝達が行われていることが多いように感じてしまう.
 知識や技術の習得が先か,こころの教育が先なのか.考えてみれば,どちらが先でもいいことのように思う.
  しっかりとした知識や技術を伝えながら,一方で,こころに感動を呼び覚ます機会に学生自身が出会えるように心がける,そんなバランスが大切.どちらか一方が欠けてもいけない.
 患者さんとの間で, こころのつながりを感じ取ってきた学生たちに,こころから声援を送りたい.学生達はちゃんと分かっている.ここからが本当のスタートだということを.

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