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ヒトの過ちをゆるすシステムづくりを

03.06.10(火)

 今,単身赴任先の愛知へ向かう新幹線の車中である.車窓から外をぼーっと眺めながら約1年前のことを思い出した.二度と味わいたくない苦い経験である.
  その日はちょうど長野県上田市での会議を終え,ながの新幹線で東京へ.いつもなら京浜東北線の各駅停車で横浜の自宅へ向かうのだが,少し疲れたので新幹線で帰ることにした.ホームでは発車ベルが鳴っている.ちょうど居合わせた新幹線に迷わず飛び乗った.列車は程なくして静かに滑り始めた.自由席はすでに満席であった.出口付近の通路に立つことにした.どうせ15分ほど乗れば降車駅の新横浜に着く.車窓からは東京のビルの窓の明かりが川のように美しく流れている.しばらくすると天井のスピーカから車掌さんのアナウンスが,「停車駅をお知らせします.つぎは名古屋...」.最初はアナウンスの意味がよく理解できずにただ聞き流していたのだが,徐々に事態のたいへんさが理解できた,私は思わず「降ります!」と叫んでいた.でも声にはならなかった.とにかく配偶者に電話しなければということで携帯電話をかけた.電話の向こうでは「何やってるの.すぐ帰って来なさい」の暖かい言葉.配偶者にも私がおかれている状況が読めていなかったのだろう.どうしていいのかあたふたとしていると,ちょうど目のすぐ前の壁面には非常停止ボタンがあった,私は思わずボタンに手をのばしそうになった.しかし,かろうじて手が止まった.そのままボタンを押していたら,翌日の朝刊に「大学教員,新幹線を停める」の大見出しが.今から思うと身が縮む思いである.
  新幹線の非常停止ボタンを押して列車を止め,ホームを脱兎のごとく駆けていったという「困った人」のことをテレビや新聞で何度か目や耳にしたことがある.なんて困った人なんだと人ごとのように笑っていたが,今になって思うとその人のその時の気持ちがよくわかるような気がする.
 私たちの周辺には新幹線に限らずいたるところで様々なテクノロジーがあふれている.私たちは否応なくその中で生活していかなければならない.でもそれらは,人にやさしいとはとうてい思えないシステムが氾濫しているように思う.自分をかばうわけではないが,ひとの過ちを許さない世界ができあがってしまっているような気がしてならない.その背景には自己責任という言葉だけが横たわっている.なんとかならないものか.ひとたび過ちを起こすとたいへんなことになるような場面では,二重,三重のチェックが必要である.例えば,空港で飛行機に乗るときのように,ゲートの自動改札機と空港スタッフによるダブルチェックのようなシステムが必要である.将来的には,列車の乗降口に電子的なゲートを設置し,電子切符との照合を行うシステムが考えられるであろうが,そこまでいかなくともすぐ思い浮かぶアイデアとしては,乗車口に一目でわかるように次の停車駅を表示する,大きめの数字を表示する,あるいは図形や記号の簡単な組み合わせを示し,乗車する人自身で切符と照合しやすくするなども一考の余地がある.間違いの起きにくいシステム作りに多くの人のアイデアを募れば必ずや人にやさしいシステムが見えてくるであろう.
 結局,その日は午後7時頃には横浜の自宅に帰り着く予定が,新横浜ー名古屋間を往復し,横浜の家にたどり着いたのは午後11時近くになっていた.唯一救いであったのは,新幹線の車掌さんが「あまりに気の毒」といって,片道の料金で許してくださったことである.人の優しさが心にしみた.

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コメント

JR中央線国分寺駅で電車待ちをしているときに「あれ...何か違う」と変化が起きていることに気づきました.
新型車両の側面にある行き先表示「高尾」の下に,「つぎは西国分寺」と電光表示が流れていました.
不慣れな土地での不安感を解消できる工夫です.
少しずつ世の中が変化していることを実感できました.
2007/04/25

投稿: 畠山卓朗 | 2007.04.25 13:38

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