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青森への旅

04.08.23(金)
 青森の十和田湖,奥入瀬(おいらせ)へ旅した.奥入瀬では石ヶ戸渓流から銚子大滝までを数時間かけて上流に向かって歩いた.損傷している左膝が心配だったが休み休みなんとか歩いた.澄んだ渓流の水と鮮やかな緑に色付いた木々の間からこぼれる陽の光がとても印象的だった.谷地(やち)温泉,ここは400年前から続く湯治場だそうだ.地元の人と一緒に湯に浸かりながらのんびりとした時間が持てた.「また来て下さいよ」と言って下さった七戸の斎下さん,きっと訪ねます.ありがとうございました.

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人の気持ちを「察する」ことの大切さ(転載)

04.8.19 (木)
 知人の重川洋一さんから転送されたメッセージです.ぜひ読んでいただきたいと思いアップします.(転載許可を得ました)
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あるエッセイ 人の気持ちを「察する」ことの大切さ

重川@松前町 です。
 私の属するメーリングリストに、長野県・佐久総合病院の高山先生という方のエッセイが流れていました。転送自由ということなので、お送りします。お時間のあるときに、読んでみて下さい。
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 福岡市の臨海地区にある総合病院。周囲の繁華街はクリスマス商戦の真っ只中でしたが、病院玄関には、大陸からの冷たい寒気が潮風となって吹き込んでいたと思います。
 そんな夕暮れどき、心肺停止状態の老人を乗せた救急車が、ERに到着しました。
 老人は86歳。確認すると瞳孔は完全に散大し、医学的には死亡確認できる状態となっていました。茶色く朽ちたような身体にパリッと糊の利いた白いシャツが印象的でした。
 一緒に救急車に乗ってきた80歳の妻の話では、その老人は自宅の居間でテレビを観ていたはずだが、妻が買い物から帰ってきたときには息をしていなかった、とのことでした。
 おそらく心臓発作を起こされたのでしょう。また、長らく肺気腫を患っていたようで、まあ、老衰による死と受けとめてもよい状態でした。さて、僕は救急当直だったので、救急部医長の指示のもと、心臓マッサージを開始しました。しかし、これは患者の妻が死を受け入れるまでのデモンストレーションでもありました。
 そこにいる医療スタッフの誰もが、妻が心臓マッサージについて「もう結構です。ありがとうございました」と言うのを待っていたのです。救急の現場ではよくある光景でした。
 しかし、その腰は折れ、何かに捉まっていなければ立ってすらいられないような妻が5分後に下した判断は、経験の長い救急部医長に言わせても初めてのことだったとのことです。
 妻は心臓マッサージをしている僕のそばに、よろよろと歩いてきてこう言ったのです。
「あの〜 すいまっせん。あたしにやらせてはもらえんとでしょうか。すいまっせん。お願いします。教えてください」
 僕は、あっけにとられて、医長をふりかえりました。医長もびっくりした顔をしていましたが、一言、「教えてさしあげなさい」と僕に指示しました。
 看護婦が、背の低い老婆のために、急いで足台を持ってきました。台に登った老婆に、僕は手の置き場所と、力加減とタイミングを手短に教えると、「よ〜わかりました。これで良かですか?」と言って、弱々しくはあるけれども正確なタイミングで心臓マッサージを開始したのです。僕が小さく頷き、「お上手ですよ。それで結構ですと言うと、老婆は満足そうに、なんと微笑みすらこぼして、夫に語りかけはじめたのです。
「お父さん。あんたは、な〜んも自分のことができんかったけん、あたしがずっと一緒におってやったとよ。しまいにゃ心臓すらあたしが動かしちゃらんといかんごとなって、情けなか人やねぇ でもね、あたしは幸せやった。楽しかった。覚えとるね、姪浜であんたが喧嘩したときのこと・・・」
 心臓マッサージを続けながら、夫に訥々(とつとつ)と語りだした老婆に、救急部のスタッフたちは、呆然としました。いったい何がはじまったのかと、他の仕事をしていた看護婦たちも集まってきたほどです。
 しかし、医長は片手を振って、スタッフたち全員に病室を出ろと合図しました。アンビューバッグを押していた看護婦もその場を外されました。僕も老婆の後ろであっけにとられていましたが、はたと気がついて、急いで外に出ました。こうして、病室は妻と真の意味で死を迎えつつある夫だけとなったのでした。
 それから10分ぐらいが経過したでしょうか。病室のドアが開き、妻が出てきました。そして、救急部のスタッフたち全員に繰り返し深々と頭を下げて、老婆は言いました。
「御迷惑をおかけしました。もう結構です」
 老婆の目には、涙のあとが残されてはいましたが、しかし満足そうな微笑みを浮かべていました。おそらく、たった今、逝ったばかりの老人もそうに違いないと、あのとき僕は思いました。
< Youichi記>
 夫婦だけの物語の時間と場を配慮した医長の「察し」には、尊敬の念を抱かずにはいられません。
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重川 洋一
< CXM01374@nifty.ne.jp>
http://homepage2.nifty.com/shigekawa/

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地蔵さん

04.08.15(日)

 先日開催されたマジカルトイボックスで講演している時である.前の方で聴講している女性の方がじっとこちらを見ながら私の話に何度も頷いてくださっているのにとても勇気付けられた.講演などしていてこれほど嬉しい反応はない.これとは反対に大きなあくびをされたり,うつらうつら居眠りを始められたりされるととても悲しい.というよりも,自分の話しの退屈さを責めるよりも腹立たしさみたいなことを感じてしまう未熟な自分がある.
 2年前ぐらいであろうか,大学の授業中に教室の後ろの方で大きなあくびをした学生がいた.実は,学生が想像する以上に教室の後ろの方までよく見通すことができるのである.授業が終わってその学生に「大きなあくびをしていただろう」とぶつけてしまった.後日,私は配偶者からこっぴどく叱られた.「あくびはね,自分を目覚めさせようとしてその人が努力している行動の現れなのだから,それを注意するあなたが間違っている」と.それからは講演中のあくびを見かけても,ああこの人も頑張っているのだなと考えるようにしている.
 話しはもとに戻るが,マジカルで頷いて聞いてくださっていた女性.どこかでお会いしたことがあると思っていたら,講演終了後に駆け寄ってきてくださり,「お地蔵さんの,...あの時の子どもの母親です」と言われて,私の中で数年前の記憶が鮮やかに蘇った.
 京都で開かれたカンファレンスの夜の懇親会で,重度の脳性まひの障がいがあるお子さんを取り囲んで話しが盛り上がっていた.私も誘われてその輪に入れていただいた.すると中心にいたお子さんが私の方を見ながら,なにやら必死にしゃべりはじめた.うまく聴き取ることができず,文字盤を取り出して読み取ることになった.「きょうとのまちへでかけた」「みちばたにおじぞうさんがたっていた」 ここまで聞くと,まわりの人々からは「カンファレンスを抜け出して京都の街へでかけたんだね」「道端にお地蔵さんが立っていたんだね」「若いのにお地蔵さんに興味があるんだ.すごいね.」まわりの人々はその話を受けてさらに盛り上がった.しかし,当の本人は「ちがう,ちがう」と必死にうったえかけているのが感じ取れた.そこで文字盤をもう一度最初から読み取り直すことになった.彼が言いたかったことを要約すれば「京都の街へでかけたところ,道端にお地蔵さんが立っていた.そのお地蔵さんの顔がこの人に似ていた!」その人とは私のことであった.自分の思いがちゃんと伝わって,彼からは笑みがこぼれた.
 まわりの人々は大爆笑である.「ほんと,畠山さんの顔,お地蔵さんに似ているわ」と.正直,もうすこし別の素敵な何かに似ていると言われたかった.でも一方で,感じたことをこんなにも素直に表現できる彼の素晴らしさに感動を覚えた.と同時に,文字盤使用につきまとう「先読み」の問題がこんな場面でも存在することにあらためて気付き,気を付けねばと肝に銘じた.船澤和秀君,ありがとう.

Takujizo


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苦しみの後の学び

04.08.1(日)
 半年あまりこの日記を書いていなかったことに気が付いた.そのくらいこの4ヶ月余りは苦しい日々が続いた.とにもかくにも前期の授業をこなすのに精一杯だった.従来科目の4科目に新たに加わった「バリアフリー環境論」「人間中心デザイン論」.個人的にとても興味があるテーマではあるものの,いざ大学で学生さん達に教えるテーマになるととても重圧がのしかかった.しかし苦しんだ分だけ,自分にとっての学びがたくさんあったように感じる.教えながら,実は学ぶ...ここまで到達できたのも,受講してくれた学生達の励ましがあったからこそと心から感謝している.ほんとうにありがとう.

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