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轟木さんと読書機
                       (株)リコーMMC推進室

                      伊東 正

轟木さんとの出会い
 ― 蔵楽を利用した障害者用読書機 ―

 私が轟木さんのことを知ったのは、一九九三年の春でした。
 ある日、轟木さんがリコーの電子ファイル「蔵楽」をコマーシャルでご覧になり、これを利用すれば障害者用の読書機(ページめくり装置)になるのではないかと発案されました。この案について相談を受けた横浜リハセンターの畠山卓朗さんが、リコーに問合せされたのが、一九九三年の二月でした。
 当時、リコーにはこのようなお話しを受ける窓口もなかったので、蔵楽の営業、企画、デザインなどの各部門の者が出席して畠山さんのお話しを伺いました。私は、MMC(Man-Machine Communication、人と機械のより良い関係)を推進する仕事をしており、このお話しも人と機械にかかわるものだろうということで、出席するように声がかかったわけです。伊東正氏ポートレート
 その後、私が窓口をすることになり、畠山さんたちと打合せながら、何とか轟木さんの案を実現できないものか考えました。そのうち、まわりの人たちが積極的に動き始め、私もそれに押される形で訳もわからずに動き回りました。その結果、一九九三年七月三一日と八月一日、轟木さんのところにお邪魔して、蔵楽を利用した読書機のプロトタイプを設置することができました。と言っても、実際に設置の作業に汗を流したのは畠山さんおよび同行したリコーの設計の者で、私はそばでもっぱらお囃しをしていました。「月刊アスキー」編集の方も同行取材され、雑誌で紹介していただきました。
 轟木さんとは事前に電子メールでやりとりしていましたが、直接お会いしたのはこのときが初めてでした。毎日病院の天井を眺めるだけの闘病生活、というような重苦しいイメージを何となく抱いていたのですが、これは完全に私の認識不足でした。轟木さんはじめ、病室の方々や職員の方々は一様に明るく、なにか「生」に対するひたむきさのようなものを感じさせられました。

轟木さんの求心力
 普段はくだらない(?)仕事しかしていない私でも、少しは人に喜んでいただける仕事ができたのは、轟木さんというキャラクタのおかげです。オーバーに言っているわけでも、お世辞でもなく本当にそうなんです。とにかく、私がほんの少し動いただけで、周りの人たちが一斉に轟木さんに向かって動きだすんです。
 読書機のプロトタイプを轟木さんのところにお持ちするという話になったとき、リコーのサービス会社の所長は、特別のはからいでメンテナンスを一手に引受けてくれました。轟木さんに蔵楽の使用説明書を読んでいただけるように光磁気ディスクに入力しようとしたときは、販売スタッフが入力作業を全面的に引受けてくれました。仰向けに寝たままで蔵楽の画面が見えるようにするために、ケーブルを延長して表示部を蔵楽本体から取り外そうということになりました。設計のメンバーは、そのために生じる問題をひとつずつつぶし、改良を加えたり測定をしたりしました。その蔵楽の表示部を支えるフレームを、横浜リハセンターの方が徹夜で完成されました。さらに、最初のプロトタイプでは本などを入力するのが大変だろうということで、蔵楽を開発した事業部のあるスタッフは本を直接読み込めるスキャナを手配しました。
 その他にも、横浜リハセンターの方々や、リコーおよび関連会社のさまざまな部署の者など、ここには書ききれない大勢の人々が、轟木さんと直接面識のない人たちも含めて、みんな轟木さんに向かって見えない糸に引かれるように集まってきたのです。この読書機のことを社内報で紹介したときも、いろいろな部署の者から問合せや協力の申し入れがありました。
 リコーには、よい仕事をした者に「みのり賞」という賞を与える制度があります。その賞の「社会貢献賞」に推薦したいという申し入れが複数の者からあり、私を含めて関係者4名がノミネートされ、昨年の秋、なかでもとくに貢献の高いとされた者に与えられる「特別賞」を受賞することができました。
 受賞の報告とお礼を轟木さんに電子メールで申しあげたところ、轟木さんは例によって淡々とした調子で、「いえいえ、私はただわがままを言っただけですから」とおっしゃっていました。(1994年7月)

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