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私と轟木くんのこと
                        小島 操

 轟木くんには、まだ一度しか会ったことがない。でも、もうずっと以前からの友達のように感じながら、今私はパソコン通信で彼と話をしている。
 「僕の気持ちを語りたい」のビデオテープを見た時、私の心は強くゆさぶられた。吸い寄せられるようにして私は彼に会いに行った。初対面にしてはいろんなことを話した。でも何を話したかはあまりよく覚えていない。着ていった冬のコートをベッドの足もとに置いて「痛かったらごめんね」と言った時、彼のか細い折れ曲がった足が見えたのが印象としてある。
小島操さんご家族
 それからパソコン通信を始めた。始めたばかりの私には失敗も多かった。通信ソフトに辞書機能を入れ込めなくて、ひらがなばかりのメールを送った。しょげていた私に轟木くんからも、ひらがなだけで書いたメールが届いた。「ほら、ひらがなだけでもきもちはおくれるでしょう」と書いてあった。
 彼がパソコン通信を始めた時の話をきいた。今は部屋に電話をひいているが、始めたころは電動車いすに乗っていて、廊下にある公衆電話のところへ行って通信をしたという。モデムを受話器にセットし、十円玉を入れながら、じっと画面をみつめていた。その姿を想像すると私は胸があつくなる。じっと画面を見つめて、十円玉の落ちる音をききなながら、病院の外とコミュニケーションしようとする情熱に感動する。
 彼が他の施設に移りたいと考えている時があった。ケアの状況や医療体勢に不安はあるけれど、彼が本当にそう願うのならば、できる限り応援したいと思った。しかし、希望の施設は遠方で、移動手段もたいへんだった。呼吸器をつけての移動は困難をきわめる。飛行機でも電車でも、車でもそれは同じだった。彼もすごく迷っていた。強行したら命だって保障はなかった。まわりの反対もあったと思う。けれど、「それでもいい、自分で決めた人生を歩きたい」と彼が言った時、私もきっとそうするだろうなあ、と思った。「何があっても応援するよ。でも本当に行くなら私もその飛行機にのせて」とメールに書いた。
 生きることも死ぬことも、自分で決めていいことだ。基本的には・・・と私は思っている。そして今の私が轟木くんのために少しでもできることがあるなら、そういうふうに生きようとする人間に、どこまでも寄り添うことでしかない。見届けることでしかない、と思えた。
 轟木くんは寄り添いたい人である。今はもう呼吸さえ機械にあずけているからだの彼がもっている魅力は大きい。その魅力はたぶん生きることへの情熱のようなものに裏打ちされている。送られてくるメールの中に「ウーン、そういうのって好きだなァ」と思わず言ってしまう感性がいっぱいある。そういう感性がエンジニアと結びつくと、今彼のベッドのまわりにあるようないろんな機器を生み出すのだなあ、と思ったりする。
 毎日鹿児島地方のお天気を天気予報の時気にしながら見ている。きょうは何してるかなあ、と思ってそのたびに出会えてよかったなあ、と思っている。

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