表紙 前へ 次へ 最後 目次 いつまでも挑戦者で
アスキー 増田尚美これまでに轟木さんに会ったのは二回。ここに文章を書かせてもらうほどのお付き合いは本当のことを言うとないのですが、彼の親しみやすい性格に接していると、なぜか古くからの友人のように思えて不思議です(そう思っているのは、こちらだけかも!?)。静かだけど、強烈に伝わってくる意思の強さ。可能性を求めてやまない情熱。それが彼の魅力だと思います。
初めて轟木さんを訪問したのは一九九十年の一月でした。そのころ、KBマウスというパソコンの入力装置が、どんなアプリケーションを使うときにも利用できるように様変わりしたということで、情報を集めていました(それまでの古いバージョンでは、相性のいいアプリケーションでのみ利用可能でした)。そして、横浜市総合リハビリテーションセンターの畠山さんに紹介していただいたのが、ユーザー第一号の轟木さんでした。聞けば、轟木さんがKBマウスを知るきっかけとなったのは、以前私が書いた記事(古いバージョンのKBマウスの紹介)だったとのこと。もちろん単なるきっかけでしかなく、その後鹿児島と横浜で何度も連絡を取り合われ、轟木さんの「どうしてもパソコンが使いたい」という意思と、回りの方の協力があって実際の利用が実現したのです。でも、その事実に私の地味な記事が多少なりともかかわれたことを嬉しく感じました。
轟木さんの病室へお邪魔すると、彼は、わずかに動く指先で、ワープロに文字を入力していました。また、日課となっているパソコン通信を利用して、同じ病室の仲間とおしゃべりをしたり、はたまた遠く離れた友人と情報交換などして、ベッドの上だけにとどまらない、広い世界で生きているようでした。身体の自由のきかない様子は予想以上ながら、パソコンの使いこなし方はこれまた予想以上のものでした。
私もそれ以来、用事のあるときは通信の電子メールを利用して、轟木さんと連絡しあっています。メールのやりとりなどしていると言えば、彼が寝たままの状態で一文字一文字をスイッチで入力しているのだとは想像しにくいことでしょう。しかし、それがパソコン通信のよさでもあると思います。すでに彼のパソコン(と入力装置)は、彼のハンディを補い、外の世界を見る目、物言う口です。
二回目に訪問したのは、約三年半後の一九九三年八月。畠山さんと、そして轟木さんに読書機を提供したリコーの方々と一緒でした。気管切開の手術を受け、前よりも不自由さは増していたはずですが、そんなことを感じさせない相変わらずの轟木さんがいました。またひとつ、自分の手足に代わる道具を見いだした彼。ところで、このとき私が何よりびっくりしたのは、同じ病棟で、同じように人工呼吸器を使い、パソコンを使いこなしている人がほかに四人もおられたことです。轟木さんの真摯な姿は、いろいろなところで、いろいろな人に影響を与えているに違いありません。
二回の訪問の様子はいずれも月刊アスキーの中で紹介させていただきました。実は、初めて取材をお願いするとき、「轟木さんに会いに行くのなら、なるべく早く計画を立てたほうがいい」と聞き、驚いたものです。筋ジストロフィーという病気についても、よく知らない私でしたので、会うまではどんなことをお聞きすればいいだろうと悩んだりもしました。それは、まるで無駄な心配だったのですが……。轟木さんに会ってお話するたび、彼のことをもっといろいろな人に伝えたい、と思えてきます。同じような病気に悩んで、解決の糸口を探している人へ、以前の私のように、轟木さんのような人がいることをまったく知らない人へ、彼のメッセージを伝えなければと思うのです。
なかなか鹿児島まで飛んでいくことができませんが、三回目、四回目と、また新しい武器(?)を装備した轟木さんに会えるのを楽しみにしています。表紙 前へ 次へ 最後 目次