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人生は思い出づくり
                          国立療養所南九州病院副院長                      福永 秀敏

 「人生とは思い出づくりのようなものではないだろうか」。
 最近、私はそのように割り切って考えたりする。解釈にしようによってはかなり消極的な感じをもたれるかも知れないが、必ずしもそうではない。思い出づくりのために、今を精一杯燃焼させて欲しいという思いである。福永秀敏氏ポートレート
 筋ジストロフィーとりわけデュシャンヌ型の患者さんの場合、ほんの十年ほど前は二十歳前に死亡することが普通だった。多くは極めて悲惨な終末で、患者も家族もスタッフも突然おとずれる死に、なすすべもないまま混乱するだけであった。ところが昭和六十年以降、呼吸器導入を始めとする呼吸管理の進歩は、数年から十年にも及ぶ生命延長をもたらしつつある。そのため多少とも死の準備が可能となり、いくらか平静な死を迎えられるようになってきた。寝たきりでの呼吸器を付けた物理的な生命延長には、批判的な考え方もある。ただ残されたいつ果てるとも知れない終末を、時を惜しむかのように短歌を作り、自分史を刻む姿を目の前にするとき、我々にできることは思い出づくりを援助することではないだろうか。
 そして驚くことは、それぞれ素晴らしい才能を持っていることである。従来、デュシャンヌ型の筋ジストロフィーの患者さんは、創作活動で非凡な才能を発揮する患者は少なかったように思う。今考えると多くの才能が開花する年齢以前に、死なせていたということになる。最近、彼らに冗談で「卒業論文を書き終えたら死んでもいいぞ」とハッパをかけている。
 そんな一人が敏秀君である。
 二十五歳を過ぎた頃から息苦しくなり、体外式人工呼吸器を付けていたが、それでも自分で呼吸がしづらくなってきたとき、我々は大きな岐路に立たされた。これ以上の延命を考えるなら気管切開し、陽圧式の呼吸器に換えなければならない。その頃彼の体力は全てにわたって落ちており、食事も喉を通らなくなっていたし、多少とも自由に動かせる筋肉は、指先だけだった。気管切開という大きな負の代償として、彼は何を得られるだろうか。幸せといえるだろうか。行ったり来たりの堂々巡りの煩悶が続いたが、意を決して平成二年八月の十三日、丁度お盆の日で病棟が比較的静かな昼下がりに気管切開を行った。彼の生への狂おしいほどの執念、パソコンを使いたいという好奇心が、私の気持ちを決心させたのであった。
 その日を境に彼はすっかり人生を変えてしまったような印象を我々に与えている。顔に生気が戻り、食欲が増し、気管カニューレの空気を抜いてやると、何不自由なくしゃべることもできる。そのような肉体的変化にもまして我々を驚かせたのは、その精神的な変容である。パソコンの雑誌や通信を通して知り合えたアスキーの仲間や、畠山さんの開発したKBマウスという特殊な入力装置で自由にパソコンを操れるようになった。さまざまな工夫やグレイドアップにより、彼のパソコン機器の裏側は「スパゲッティ症候群」さながらにコードが錯綜している。私は五分と耐えられなかったが、我々の看護スタッフは忍耐の限りを尽くして、彼の指示に基づきながら配線をたぐり作動するまで設定する作業が続いている。
 そんなある日、私は半分は冗談、半分は本音の相半ばする気持ちで話しかけた。「お前の命はいつまで続くか正確にはわからない。遺書のつもりで自分史でも書いてみたらどうだろうか。もし早く死んでしまっても遺稿集にはなるんだから」。
 しばらくして、時を惜しむかのように必死にパソコンに入力する姿を見るようになった。「遺稿集ではつまらないから、生きているうちに出版したい」。
 それから、児童指導員の今村さんを交えた共同作業が開始された。まず敏秀君がKBマウスを使ってパソコンに入力した原稿をプリントアウトし、今村さんが各段落ごとにみやすいように整理した。それを再び彼と今村さんで推敲を加え、そのフロッピーディスクを私が預かり、ノートパソコンで最小限の校正を行う。そしてまた彼と今村さんで検討する。このような繰り返しを経てようやく完成にこぎつけた。
 小学生のとき入院し、そして現在は呼吸器を二十四時間つけなけらばならないという、限られた経験と空間と時間の制約の中での作業であるため、多くの困難がつきまとう。いろいろな読み方があろうと思われるが、筋ジストロフィーを背負った一青年の、三十年の思いと主張を理解してほしいと思う。

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