表紙 前へ 次へ 最後 目次 充実した一週間
長い間の夢であり希望であった、誰の拘束も時間的束縛も受けない空間をケア付き福祉ホームで多くの方々の協力を得て、一週間ではあったが大変に充実した時を過ごすことができた。
病を持つ身としてこの世に生を受け、絶えず誰かの助けを借り、三十数年を生きてきた。それは紛れもなく個性の写らない写真のように、表面は穏やかでも内側には乾いた風が吹いている。風を遮ろうと手を翳しても、それは決して遮られるものではない。いつでも吹かれ流されていなければ、呼吸もできず、言葉さえも口にはできない。そしていつか自由が欲しくともその気持ちを心の奥に閉じこめ、諦めに似た想いと共に忘れている。
限られ守られた環境でしか生きられない者には、自由の素晴らしさは知ってはいても、平穏から抜け出す冒険はできない。それは誰も様々な拘束や制約のある中にはいたくはない。そして生きたくはない。しかし自由が少なくともここにいなくては生きてゆけない。そんなジレンマの中に人生を委ねることが最も楽で、エネルギーを必要としない生き方なのだ。またある程度体の自由の効く者で、したいことができているのなら、満たされていると言わないまでも不自由を感じない。結果的に敢えて苦労して自由を求める必要もないのだろう。
確かにそれもひとつの生き方だろう。人それぞれ生きる方法があるのだから、他人が不満であろうと自分が満足していればいい。人がとやかく言うことも口を挟むものでもない。しかしそんな選択をしている人々を見ていると、何ともやるせない気持ちになる。それにはやはり状態が重度化した結果、失ったものを得たい、取り戻したいという無意識な気持ちが作用しているのだろう。
人は手に届くときは欲しくなく、届くことが難しくなると欲しくなる。その典型が私自身だ。
入院して以来一度たりとも個室の経験がなく、常に誰かの目や耳があり、ひとりだけの世界はいわば憧れである。病院はあくまでも集団生活を前提にしている以上、個人のプライバシーの守られた環境を望むこと自体が間違っているのかも知れない。
今の福祉や医療の現状を考えると、在宅ではない病院や施設で生きる者にとってはどうしようもないことはわかっている。それでもなお、必要としているもの。それは言うまでもなく、自分一人の部屋、プライバシーの守られた環境、そして誰かが言っていたが、泣きたいときに泣ける部屋だ。
泣きたいときひとり泣く。それが人間本来の姿ではないだろうか。
今回の体験をとおして、自分一人の部屋がどれほど素晴らしく、必要なものであるかを身を持って知ることができた。
ホームで独りの部屋で自分だけの存在を認識した時、「これぞ人間らしいひとりの大人としての生活なんだ」ということを肌で感じることができたことは、どんな豪華なものよりも素晴らしく、言葉にできないくらい心には充実した気持ちが満ち溢れていた。これほどまでに充実した気持ちで居られたのも、ホームを支える職員の皆さんの痛いほどの心遣いがあったからこそ、ショートステーを終えた今でも充実した気持ちが続いている。
私にとって今回の体験は、更なる希望と活力を得ることが最大の収穫であった。表紙 前へ 次へ 最後 目次