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福祉機器の存在の意義

 障害を持つ者が一つでも介護者の手を放れ、自力で何かをできる喜びを健常な人々に理解してもらえるだろうか。
 介護者の手を軽減するものが福祉機器の存在である。機械とは本来、無機質で血の通わぬ冷たいものという印象が、福祉機器を知らない人々にはあるに違いない。
 著しい進歩を遂げた技術は、研究者や技術者の不可能を可能にする地道な研究と努力によって、血の通った物へと変化している。しかしそれには機械の助けを受けることで、介護の量を減らしたい、自分でしたいという二つの願いによって、需要があるからこそ技術の進歩に影響している。
 私のいまの状況は、人工呼吸器なしには一分たりとも生きられない。もちろん腕も足も動かせない。指はほとんど力が入ることはない。とは言っても完全に自分の意志で動かせないわけではない。全ての機能を失う中で、唯一動かすことのできる部分といえば、僅かに動く両手の親指である。その僅かな動きを利用することによって、命綱とも言うべきナースコール、パソコン
の操作、その他のことを福祉機器によって可能にしている。
 福祉機器は何も私の使っている物ばかりではない。他にも介護器具や補助具など多種多様に渡り、その量もかなりにのぼっている。しかし日本の福祉機器の状況といえば、貧弱としか言えないように思う。それはどういうことかと言えば、福祉機器の存在を知っている人は、使用する機会もどのような種類の物があるのかも知ることができる。しかし知らない人で必要としている人には届かない現象が起きている。このような状況にあっては、研究者や技術者の汗が無駄になる。それでは何のための努力であったのか判らないことになってしまう。そうならないために必要な人に、届くシステムを作るよう行政に望む。
 生きるとは肌で感じることだと思う。それは人間しかできないことかも知れない。しかし心を伝える機械であるなら存在価値がある。人のするべき事を機械が暖かい手となって、手を差しのべてくれる。もちろん研究者、技術者の努力もあるが、必要と熱望する想いが暖かい手となって、形となってそこにある。
 福祉機器の存在の理想を言えば、開発者にとって開発や研究をすることで儲けられるかではなく、その恩恵によってどんな笑顔や目の輝きを見られるかということではないだろうか。
 人間は端から見て幸せと見えても、目の輝きがあるとは限らない。幸せとは心で感じるものではあるが、しかしたとえ形として現れなくとも、目には必ず輝きがあり肌で発する。その意味で「肌で感じるものをその真意とすべし」と言っても過言ではないだろう。
 今後、老人や障害者が多くなっていく、その介護を担うのは人間である。
 しかし、人間はすぐに不平不満を言いたくなる。体の不調や心の不安などの要素が幾重にも重なり、そして表に噴出する。たとえ真意でなくとも。それを少しでも解消してくれるのが福祉機器ではないだろうか。
 これからますます科学の技術は進歩を遂げる。そして進歩によって、本来、不可能であったことが可能になる。それは何を意味するのかと言えば、進歩する技術を利用することで福祉機器は進化し、障害や病を持つ私のような不要とさえ思える人間に、存在の意義や必要性を認識させてくれる。それが本当の幸福に繋がり、幸せでいられるのではないかと思う。

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