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いま必要としているもの

 生きる環境は人それぞれ様々にあり病院、施設、家庭、その境遇や家庭環境、身体の状態によってかなりことなるだろう。しかしどの環境にある者にとっても共通するものがある。それは生きたい場所で生きるということ。
 私は生活のほとんどをベッドの狭い環境の中で過ごしている。いつも誰かの手を借りていなければ、トイレも食事もとることもできないままに、一日たりとも生きていくことはできない。
 病院の生活は、時間ごとにやるべき事があって、それが終わればまた次のことが待っている。そのやるべきことというのは、自分で課したもの、入院していてしなければならないこと、命を維持するためにするべきこと。その全てが時間的制約があり、時間内に済まさなければならないことが常につきまとっている。しかしその全てを消化しなければならない決まりも約束もない。ただ私のように何かをしていなければいられない人間にとっては、常に時間に追われているような錯覚がある。ひとつには私自身にも責任はある。
時間に追われるように自分を追い込み、時間を振り向けているのかも知れない。「何時になったら何をして」、「何時に何をしなければ」と追い込んでしまっているのかも知れない。その結果余裕というか、ゆとりを失い、忘れ、時間に追われているような錯覚を持っているのだろう。
 いま私に欠けているものがあるとすれば、言うまでもなく心のゆとりという穏やかな流れだろう。しかしいまの環境にあっては、余程、頑とした誓いでもない限り、誰の目から見ても、穏やかな一日を送っているとは思われないだろうし、そのようには見えないだろう。それはあくまでも他人に対する体裁に過ぎない。
 いま私が必要としているもの。それは人が人としていられる環境、生きていて良かったと思える環境、生きていることを肌で感じられる環境。私が生きてゆくには、多くの介護とある程度の医療を必要としている。管理されることはある程度は仕方ない。しかし自由が欲しい。自由であることはある面、無法地帯である。しかし自由であることは、たとえ自分で何一つできない者であっても、生きていることが意義あることだと認識させてくれるものである。
 それを現実にしてくれる環境を切望する。

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