表紙 前へ 次へ 最後 目次

性の問題

 人間の体を持ち、普通の思考を持った人間として生まれてきた以上、生まれてからある一定の時を過ぎれば、必ずあらわれる性への関心。特殊な環境に生活する者であろうと性への関心は、度合に違いがあっても変わらないものであろう。
性という問題は、簡単な言葉や推測では計り知れない。世は情報化時代、メディアが発達したことにより情報が溢れ、性の情報もその例外ではない。数十年の昔であれば、町の本屋では特殊な方法を除けば、簡単には性の関心をそそるものを手にすることはできなかった。しかし現在では、子供であろうと大人であろうとその区別なく、手にすることは簡単にできる。幸い私の生活する閉鎖されたような病棟でも手にすることができる。
 そのようなわけで、情報は嫌いな者も好きな者も否応なく伝わって来る。しかし、性というものは、他のものとは違い、具体的に教わらなくとも時期が来れば次第にわかって来る。というよりも、生まれる以前から備わっているもので自然にあらわれて来るものである。
 異性を見ればある種の興味を抱く、それは当然のことである。異性に興味を持つことは、太古の昔に獲得した能力であり、知恵である。
 私の体の中にあるものは、一つとして無駄と呼べるものは皆無に等しい。とりわけ陰部は尿を体内から放出させるとともに遺伝伝達の源でもある。それが性として現われて来るのは当然である。
 今の人間は生きることに精魂を傾ける必要もなく、生きるため、子孫を残すということを考える必要もなくなったのである。むしろ娯楽といった趣が出てきた。子供を増やすこと、人を増やすことは、現在でも国力につながるという国もある。人口があまりにも多いために出産の抑制を行なっている国もあるという。
 現在は義務といったような考えがなくなっているのは事実である。
 私のことと何の関係があるのかといわれても何ともいえないのだが。私のような者でも生まれてきた以上は、性の本来の目的を持ったものも備わっている。そして、一応は正常に近い思考も持っていれば、機能も持っている。そして私も性の問題を持っている。
 この問題は疑問を持って、誰に問うても納得する答えは決して得ることはできない。誰しも一度はこの大きな壁にぶつかる。特に思春期以降に起きる問題である。しかし、普通の人間ならばこの障害も個人差はあるが、何とか乗り越えることはできる。
 それに引き換え、私のように僅かも自分の体を動かすことのできない者にとっては、大きな問題である。特に思春期に体の自由が利かなくなる私の病気は、性の問題にも大きく陰を引く。
 筋ジス病棟のような集団の環境で暮らす者にとって、性的発散のできる場所はごく限られている。家庭で暮らすものは、自分の部屋がほとんどの場合であるが、集団の中にいる者はままならない。
 では性的ストレス発散の必要性についてだが、成人期を迎えた健康な人間は、ほとんどの者がある年齢に達すれば、それなりにパートナーを見つけるものである。付き合う期間が長くなれば、性的関係を持ち、ある種の性的な発散をするのではないだろうか。しかし、閉鎖された状態に近い環境に生活する者は性的発散をすることは難しい。
 では一体、集団で暮らす男性はどのように発散し、解消をしているのだろうか。第一に考えられるのはトイレである。しかし、病棟のトイレの場合、便器は一つだけ設置されているわけではなく、また一人だけ入るわけではない。ちょっと厚めの板で区切られ、いくつか設置されている。トイレに入っていればさまざまな声が聞こえる。そして薄いカーテンで仕切られいることもあり、いつ人目にさらされるか分からない。そのような状態にあるトイレで性的解消をするにはやや難がある。そんなことを気にしてまで、しなければならないかといえば疑問もある。
 第二に部屋である。しかし、部屋には自分の他にも住人はいる。時間的に言えば、昼間は人の目がある。すると人の寝静まった後ということになる。この時間なら人の目をさほど気にすることはなく邪魔されることは少ない。手の自由の利く者は、就寝後、処理することは可能である。しかし、手の自由が利かなくなった者は、処理を自分ですることは不可能である。
 現在まで性に関していろいろとあった。特に成人以前のことであるが、少し書いてみたいと思う。
 性に目覚めるのは人により開きはあるが、思春期とほぼ同時期ではないかと思う。思春期の頃というのは、性への関心が急速に高まるのと同時に病気の進行も早まる。進行するということは、手の自由も奪われるということでもある。初めのうちは誰の気兼ねをすることもなく処理もできる。しかし病気が進行すると困るようになり、自分でその行為をできなくなる。
 若いときは、ちょっと触れただけでも、卑わいな言葉を口にしただけでも反応が結果として出てしまう。また、自分の負った病気の進行とともに、性に対する興味はその度合を増していく。そして男特有の病気、インキンタムシもこの時期発生しやすい。そのために病棟では陰部清拭をする。その時に勃起してしまう。清拭をするのはほとんど看護婦さんである。看護婦さんは女である。その人達にしてみれば自分達にはおこらないことであり、異質なのである。勃起という現象は見ること自体が恥ずかしいことでもある。
 未婚者は、ほとんどの場合、口にすることはない。しかし、既婚者には困ってしまう。ほとんどの場合その現象を見たとたんに多い。必ず一言いうのである。「何これは」とか「大きくして」と。それも大きな声で。いくら部屋にいるのは同性といってもいい気持ちはしない。勃起することは知っていても口にするのだから、始末に負えない。世の中さまざまな人がいて、時には相手のことを気遣い、口に出さない人もいる。ただ黙っていてほしいと思う。
 生殖器の必要性から言えば、病気と共に暮らすもの、特にその中でも病院で一生を暮らす者で、手も自由にならない私のような者にとっては無用の長物にすぎない。よって人に迷惑をかけることもないし、人を悩ますこともない。それなら元から持って生まれなければ良かったのではと思うことがある。もし性というものが存在しなかったならば、進化もなく人類なんて有り得なかったし、異性を好きという感情を持つことはなかった。
 筋ジス患者の場合といっても、当てはまらない人もいるが、昔は世間一般に性という言葉は秘密という言葉に覆われていたように思うし、言葉にすることが恥ずかしいところはあった。だから、一部の仲間で、または、自分だけで楽しむものであった。だから、ドキドキと胸がときめくものだった。
 性的欲求を処理する自慰行為をすることはごく自然のこと。それは自分の力で処理できるから変にとらえることは少ないことであるが、自分で処理できない私のような者はどうだろう。病院に患者としている以上、病的ととられるのが関の山だろう。では性的欲求を処理するにはどうすればいいのか。それには生活するにあたり私達を取り巻く介助者及び職員の多大な理解が必要である。そして処理するという行為を理解し、自分にとって秘密を守る信頼ある人に依頼するしかない。しかしそうなると偏ってしまい、信頼を置ける人に迷惑を掛けることにもつながる。一方、介助するとすれば頼まれた者は、『依頼した人との間に秘密を持ちたくない』というのもある。しかし依頼した者も理性は持ち合わしていて、こんなことを依頼してはならいという気持ちはある。しかし性欲を抑えることは難しい。
 性欲は、人それぞれ強弱はある。だからといって大きな声で決して言えることではない。自分と一緒に居る者が男だからといって堂々と言えることでもない。だからといって秘かにできる場所は少ない。このようなことをする場所など作るわけにもいかない、あったとしてもそこに行く場合人に見られたならば、いかにも今からしますと言っているようなものである。よってその行為をする場所を作るわけにはいかない。ある程度、手の自由の利く者は何とかなるが、自由の利かない者は、依頼するか、介助してもらうか、我慢して諦めるかのいずれかである。とかく依頼された者は、大抵拒否反応を示す。
 私は人一倍、性というものに興味があり性欲も強い。自分では、さほど異常という性質ものではないと思う。理性というものが薄いのだろう。
 男である以上、人間である以上、誰でも性の疑問を持った経験はあるだろう。だからといって誰にでも気軽に話せることではない。自分でできない以上は、何もしなければ、問題に直面することも人間関係にも気まずくなることはないし、恥をかくこともない。性欲というものは、どんなに年を取ろうとも存在するものなのだそうだ。また、男にとっては、若さの象徴であり、健康度のバロメーターなどともいう。
 『朝マラのないものに金を貸すな』などと昔の人は言ったらしい。正しくその通りだと思う。風邪を引いたりして熱があり体がだるい時は、あそこも元気がない。性の問題については、解決策を見つけ出すには難しいものがある。しかしその中でも唯一の解決策はある。それは性欲を理性で抑える。つまり我慢することだろう。これはやはり我々の生活を助けてくれる職員の理解と協力なしに解決はない。男と女では考え方も捉え方も違う。生理的にも大きな差があるだろう。男の場合、目的が達成されれば過程は拘らない。しかし女性は違う。精神面がかなりの影響を及ぼす。行為に及ぶとき感情なしの場合は少ないだろう。性欲の処理を手伝うにしても、感情の介在する部分が大きく、要求するからそれだけを達成してあげるといったことはなかなかできるものではないだろう。依頼された者が強要されていると思われてはならない。本来、性の処理は他の者、特に女性である人がするものではないのだから当然のことである。この問題の存在は、意志を持つ人類がいる限り永遠のテーマである。障害者であろうと健常者、老人であろうと誰しも持っている。どんな状態になろうと最後まで食欲と性欲は残るという。結局のところ最後は人間固有のもつ理性という領域で、個人が個人の持つ判断の下でコントロールするしか他に道はない。私は病気を持った者であり、性の問題も病気の一部として受けとる人もいるだろう。自分としては普通だと思ってはいる。これまでの文章を読み誤解されることを書いているかも知れないが、これはあくまでも私の考えに過ぎない。これが全ての患者に当てはまるものではない。
 この性の問題は人間の永遠に残された問題であり、少し問題から外れるかも知れないが、エイズもこの性の問題に価する病気ではないかと思う。
 医学の進歩と共に私の病気も例外に漏れず、以前に比べ人生の時間が長くなり、以前予期していなかったことも問題となるようになる。とりわけ性の問題は一筋縄では行かず、一つの形には納まらない。一つがこうであるからその他もそうだとは言えない。問題は ますます分からない。世間一般の事も解決策がなく、人間として地球に自分達の仲間を増やしてきたわけで、地球で人間が暮らすことができなくなったときこの性の問題もこの世から消え去るだろう。

表紙 前へ 次へ 最後 目次