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医者と患者

 白衣に身を包み毎朝、「元気か」と声をかける主治医の福永先生、いま信頼をおける人となっている。こんな事を言ってはいけないことかも知れないが、一時期まで信頼をおかなければならないはずのドクターに、どこか心許ないところがあった。それは何故か。私から遠い存在のような気がしていた。それがある時期、会話を取れる時間が多くなり始めたためか。気管切開という私にとってとても大きな転換期が訪れた事からか親しみを持てるようになった。
 これまでいく人かの先生が、主治医として受け持って下さった。医者という職業柄、時間的余裕はなく、ゆっくり話をすることなどほとんどない。話をする機会があったとしても体のことが主で、それ以外の事となると話したくても叶わぬことである。
 私はいろいろなことに関して楽観的である。そのせいもあり、主治医の福永先生と交わす冗談は、真実に近い冗談というのか、ブラックユーモアの類である。全く知らない者が聞けば、とんでもないものに聞こえると思う。しかし私にとってその冗談は、「頑張れよ」、「まだまだ大丈夫」という励ましにも似た言葉に聞こえるのである。 病気が進行するにつれ、何かをしたいという欲求は増してくる。しかし体は自分の意志に反するかのように自由度は次第に下降線をたどる。
 筋ジストロフィーという病気は、慢性の病気ではあるが、一般の慢性の病気とはまったく違う。オーバーに言えばガンと似たところもある。というのは、心半ばにしてこの世から去らなければならないということである。これまで幾人もの療友がこの世を去った。私が中学部の頃は同級生が八人いた。しかし六人が亡くなった。
 我々にとって医師の発する言葉の影響力は大きい。些細な事であっても気になるものである。患者の体の状態の判断を下して治療を行なう専門家であることが最も大きな理由である。潜在的に医師には権威に似たものがあり、それだけに全てが正しいと思えるのである。
 その点は、私の場合、信頼の域を越えてると思う。確かに主治医の先生方の力により延命をしていることは事実である。しかしそればかりではない。福永先生は私を認めてくれているような気がするのである。信頼されていると思えることが大事ではないだろうか。どんな場合においても、信頼関係ができればさまざまな事においても上手くいくものである。信頼されていない、一人の人間として認めて貰っていないと思うと自信がなく、恐怖感といういうには大袈裟過ぎるかも知れないが、一つ一つが気になる。一体、自分はどうなって行くのか不安になる。まして筋ジストロフィーの病にある者、特に重症者にとっての先行きが不透明で不安であり、生きることにおいて計画を立てることができず、これから自分は残された時間を如何に過ごすかという問題が大きくのしかかってくる。また死ぬ事の恐怖、予想もできない出来事、さまざまなことが脳裏をかすめ負担となり、無気力は増すばかりである。医師のかける言葉は重要であり、たった一つの言葉で、プラスにもなればマイナスにもなるのではないだろうか。
 医師という人に、全てを負わすつもりはない。さまざまなことに一緒に取り組むことで、良い方向に向くのではないだろうか。

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