表紙 前へ 次へ 最後 目次 轟木敏秀君の世界
稲元 昭子正明兄ちゃんの事
「正明、母ちゃんは何もしてやれんかった。ごめんね」正明君の冷たくなろうとする身体に取りすがり、「敏秀にはお兄ちゃんの分まで生きてもらわんな。頑張って」と言うあのときのお母さんの悲痛な叫びは、今でも私の脳裏を離れません。
一歳違いの正明君は、敏秀君に大きな影響を与えた人でした。パソコンのこと、科学に対する興味など、端正な顔だちと哲学者のように寡黙な彼からは想像もできないような情熱をもっていました。
亡くなる十日前、マラソンの浜田選手の講演会が病棟の食堂でひらかれました。時々人工呼吸を受け顔面蒼白、冷たい汗を額に浮かべながら必死にはなしをきく彼に、病棟職員がベッドにかえるようにすすめても頑として聞き入れませんでした。一言も聞き漏らすまいとする正明君の目は、燃えているようにみえました。
正明君がいよいよ悪化したとき、敏秀君に面会しないかを聞いた所そっけない振りを見せました。あとで聞いたら信じたくない気持ちと、怖い気持ちとが交錯していたようです。何にでも真剣に挑戦していた正明君の姿は、敏秀君のその後の生き方と重なって私には見えるときがありました。親からの精神的な自立について
お母さんは、父親亡き後、厳しい生活を一人で頑張って生きて来られました。同じ年頃の息子を持つ私から見ると、敏秀君の母親に対する態度が余りに淡々としているのを不思議に思えることでした。あるとき彼らの幼いころの話しをきいたことがあります。山道ばかりの通学路で手を引き、背負い、抱っこしながら送り迎えされたそうです。障害を持つ兄弟を抱え一時も気の休まることはなかったのではないでしょうか。幼いときに精一杯の愛情を受けたことが、今彼の自立する強さとなっているのだと思います。気管切開について
平成二年八月十三日、気管切開をしました。その数年前から敏秀君の呼吸状態は厳しい状態になっていました。朝方なかなか眼が覚めない、顔色が悪くじっとりと冷や汗をかく、苦しくて食事も満足に食べることができないといった有り様でした。
そのため体外式人工呼吸器を装着していたのですが、これも完全に呼吸を楽にできるものではなかったのです。胸を押す用手呼吸は人の手による補助呼吸であり、一時的な呼吸不全に対する改善策ではありますが、終日続けることはとても無理な話です。そこで登場したのが体外式人工呼吸器でした。しかしこの呼吸器の装着は患者さんにとっても、看護婦にとっても忍耐と工夫と駆け引きの連続でした。鉄の肺を小型にしたようなもので呼吸運動を体外的に行なわせようとするものです。
身体に呼吸器がフィットするまで「もっと右、左、上いや下に・・・」「手を上げて、下げて、・・・」指先の位置から足先の高さまで調整が延々と続くのです。早い時は十分ぐらいですむが、時には四十分、五十分もかかっていました。呼吸器に電源がはいり設定圧の調整も上手くいってやっと終了…。共にほっとする一瞬です。このときわずかでも違和感が残ると、それこそ一晩中眠れず翌日も気分の悪い状態が続くのです。まさに「たかが一ミリされど一ミリ」の世界なのです。
こうして頑張れるだけ頑張っていたのですが、呼吸不全の症状はますます悪くなり食事もとれず寝たきりでいることが多くなりました。同級生や下級生が次々この世を去っていく中「まだやりたいことはいっぱいある、何で僕がこのまま死ななくちゃいけないの」という意気ごみがそのころの彼にはみなぎっていました。
当時気管切開云々については多くの考え方があり、やった方がいい、やらない方がいいと言うことは決断のしかねることでした。しかし彼の生きて自分のやりたいことをやりたいという意志の強さに私たち職員スタッフも圧倒されたかんじでした。気管切開をしても会話はできないし、切開することによる痛みや、ベッドに拘束される苦痛に耐えられるだろうか・・・、呼吸器は身体に合うだろうか・・・、今の看護力で彼の生きがいを支える手助けができるか・・・、など・・・。
そのことは何カ月も話し合いを続けました。一方主治医の福永先生も一番苦悩された時期でもありました。敏秀君はことある毎に自分の症状のことを包み隠さず正直に話して欲しいといっていました。直接気管切開についていつするか、などという話は本人に伝えられるようで実は言いにくいことでもあったようです。
そのころNHKの取材をうけていました。パソコンを通じて自分の考えを伝えたり多くの人と対等に情報の交換をおこなったりする様子と彼の生きることに対する執念等をありのままに伝えるものでした。日に日に呼吸状態が悪くなるのは、取材されるかたがたにもわかっていたようです。いよいよ手術日は決まったのですが、お盆のことでもありちょっと複雑な気持ちでした。彼は「僕にふさわしいし、べつに気にしない」と言っていました。
気管切開した後、思いがけなく会話もでき、その後ますます生き生きと生活する彼を見て、沢山のことを学ぶことができました。しかし寝たきりでパソコンを打つためのセッティングはなかなか難しく、十分以上かかることもありました。職員も他の患者さんたちへの看護援助の合間に、必死になって体位の工夫や機械との格闘をやったのです。彼の生活を支え続けるのは、やはり大変な努力と忍耐を要することでした。そのため時間を切ってパソコンに向かう毎日でした。パソコンに関する情報は、びっくりするぐらい沢山のものをもっていましたが、入力する方法が問題でした。横浜より畠山さんが駆けつけてくださったり、鹿児島大学工学部の皮籠石先生が指し棒を試作されたり多くの共感者によって支えられ、励まされてクリアすることができました。自分史について
気管切開を受けてまだ抜糸も済まないうちから、パソコンへの取り組みは始まりました。毎日時間を惜しんでキーボードに向かっていた姿を今も忘れることができません。
その中から生まれたのが、この自分史だったと思います。口の悪い福永先生は「せっかく書くのなら思いの丈をしっかり書いて、心置きなく命をまっとうできるように」等といい、対抗して敏秀君も「生きているうちに自分の本を見てみたい、まだまだ頑張れるから・・・・・・」といいあっていました。本にしようときめてから、指導員の今村葉子さんとの闘いも待っていました。限られた時間の中で書きつづったものを選択し編集する作業だったと思います。呼吸器をもってカウンセリングルームに移動し時には汗だくで取り組んでいたようです。一方、言い出しっぺの福永先生も編集に関わり忙しい仕事の合間にいろいろアドバイスをされました。元々頑固で見えっぱりな彼は、この二人を相当悩ませたようすでした。それでもなおかつほっておけない、愛すべき彼でした。文中にはあまり書かれていませんが、ちょっと疲れた職員を見ると「大丈夫ですか」と気遣い、興味のあるテレビがあるとビデオに撮っておいて見せてくれる優しい彼です。
筋ジス病棟は、今患者さん達が懸命に生きている小さな世界です。生と死が隣り合わせにあり喜怒哀楽に富んだ生活もあります。決して満足の得られる環境とは言えませんが、患者さんたちは生き生きと生活しています。また職員も腰痛や肩凝りと引き換えに患者さんから沢山の愛を戴いて仕事をしています。両者の関係はその中に身を置いてみないとわからないことが多いのですが、親子兄弟にも共通する場面もあります。彼らが生きがいを持って生きている姿は私に何よりの励ましを与えてくれることでした。
敏秀君が自分の生き方を通して、自分史を通して語りかけていくことは、きっと多くのかたがたに励ましと勇気を与えるものと信じています。
自分史発刊おめでとう。表紙 前へ 次へ 最後 目次