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気管切開を受けた日
平成二年八月十三日午後一時
十三日と言えば巷では盆の入り、何の因果かこの日に気管切開を受けた。
気管切開を受けるということは、私のこれからの日常生活において、試練の一つになる。
その試練とは、声が出なくなるということである。自分の要求や欲求つまり、ベッドに寝ているとき体の向きを換えたり、蝿を追い払う、手の位置を変えたり、かゆいところをかいてもらうような、単純かつ人間の基本的動作の介助を介助者に伝えることが困難になるということである。
朝から強い日差しが窓から見える景色を照らしていた。今日は私にとっても最も大事な日である。気管切開の時間が刻一刻と迫っている。しかしそれほど緊迫した精神状態ではなかった。私にとっては、これまでの辛さから、少しでも逃れることができると思うと不安などなく、嬉しささえもあった。不安が全くないと言えば嘘になるが・・・。
いよいよ気管切開の時間が迫り、準備の終わった部屋を眺めたとき、いよいよ私にとっての賭が始まるのかとの気持ちで一杯であった。ベッドに移されたとき、部屋には、ただ時を刻む時計の音ばかり響いていた。
突然のドアが開きそれまでの静寂は消え、執刀して下さる主治医の福永先生と幾人かの足音があった。それから間もなく私の不安な気持ちを思ってか、福永先生が話しかけてくれた。
「じゃ始めるか。敏秀、大丈夫か」
「はい。先生、メスを握るのは研修の時以来じゃないですか」
「そうかもなあ」
「ということは十数年ぶりとか・・・、内科医はメスなんて握ることはないですからね」
「まあ心配するな、広津先生もいるんだから」
「心配なんかしてません、失敗しても死ぬことはないですから」
「まあ、そういうことだから」
そんな軽い冗談を交わした後、気管切開が始まった。部屋の扉が閉じられ、手術に使用される布が被せられた。そして麻酔が数カ所打たれた。麻酔の針の痛みの少ないのがすこし以外であった。針に気を取られ、気がつくと何の感触もなく、切開は順調に進んでいるようであった。ただ顔を覆っている布の欝とおしが強かった。この時私は、切開を見守る婦長さんに声を掛けた。
「気管、開いたんですか」
「後もうすこしだよ」
「そうですか」
婦長さんに声をかけた後、喉に穴が開いていれば声がでないことに気づいた。それから十分位の後、例えようもない鈍い痛みが走り、気管が開けられた。機械の呼吸に変わった途端に、まわりの空気がとても美味しく感じられた。気管切開を受ける前は、呼吸をする事が苦しく、胸がとても重く空気の美味しさなど思う余裕はなかった。それが機械に呼吸を任せ、新たな感動を憶えることができた。しかし、気管切開を受けたことは明るいものばかりではなかった。声を出すことができるだろうか心配だった。私の前に気管切開を受けた人は、声を出すことができなかった。自分は声を出せるのだろうかと不安であった。
自分の手さえも動かすことのできない私にとって、声を出すことが出来ないということは死活問題である。
気管切開を受けて間もなくの頃、一つの出来事があった。
そろそろ外は明るくなろうとしていた(気管切開を受けた直後で回復室にいた)。足や体のあちこちの痛みで目が覚め、そこで体位変換をしてもらおうと呼び出しブザーを押そうとした。しかし、しっかり手に持っていたはずのナースコールがない。私は焦った。何かのはずみで床に落としてしまったのである。声の出せない私にとってナースコールは命の何番目かに大事なもの。それを落としてしまったのだからさあ大変。私はさまざまな方法で看護婦さんを呼ぶことを試みることにした。まずは、看護婦さんの足音が近づいたときに、舌打ちをして呼ぶことにした。回復室の隣は、看護婦さん達のいる記録室。看護婦さんの足音が聞こえる度に舌打ちをする。しかし、手を洗う水道の音にかき消されてしまう。力をこめて舌打ちをする。これも何の反応もない。今度は口に唾をため、できるだけ大きな音になるようにした。壁を一つ隔てたへやには看護婦さんががいるというのに、気づかすこともできない。何もできない自分がとても情けなく、無力な自分が悔しかった。
「このまま誰にも気づいてもらえなければ一体どうなるのだろう」
という不安と焦りでまっ暗になった。足や体の痛みまで加わり、看護婦さんに気づいてもらうまでの時間の長いこと。実際には三十分から一時間ほどの間であったが、それはもう、物凄く長い時間であり、地獄に送り込まれたような心地だった。現在は幸い、以前と同じ声を取り戻している。この出来事が起きてから、私は常に不安と恐怖をもつようになった。気管切開をして声を失ったものが、ナースコールを押せないということは、拷問に等しいことである。
気管切開を受けることは、私にとって賭であった。人生においての、一つの大きな区切りであり、再出発の時でもある。「スーパッ、スーパッ」と繰り返される無機質な機械音も、付き合いが長くなると単なる介助者ではなく、友であり、子守歌を唄ってくれる母でもある。
声のでない生活が始まって見ると、既に気管切開を受けた人がいるお陰と言っては悪いけれど、その人のするのをまねることで、案外楽に看護婦さんに訴えていることが伝わった。しかし、話す機能はあるのに声が出ないということは歯痒いものだった。自分では相手が分かわかりやすいようにと口を大きく動かしているが、なかなか相手に伝わらなくてもどかしい。言葉の中には相手に伝わり易いものと、そうでないものがあることがわかった。例えば「あ、な、は、ま、や行、を、ん」、以上の言葉は、相手に伝わりにくい。相手に物事を伝えるということがどれほど難しい事か改めて知ることができた。聾唖者の方々の気持ちが微々たるものであるが、わかったような気がする。
気管切開を受けたことは決して後悔はしない。確かに失うものは多かったけれども得たものも大きい。たとえ小さな事でもできなかったことが楽にできるようになった。その中で何より喜ばなければならないのは、好きなパソコンが以前に比べ格段に楽にできるようになったことである。パソコンの操作が楽にできるというのは、気管切開をするきっかけであり、目的でもある。パソコンができないのであれば、私にとっては失敗に等しい。気管切開を受けたことは判断の間違いではなかった。
私のこれまでの人生は、病気を負っている事で普通の人とは随分と違うものとなっている。病気を恨むことは楽なこと、そして繰り返し問いかけても求める答えは出ない。そんな時間があるのならその時間を自分に振り向け、残り僅かな人生を照らす明りを灯すべきである。そして充実した人生を送る道しるべを見つけることである。失ったことを後悔しても何の進展もない。まして私にとって過去に拘ることは無意味なことであり、失った時が戻って来るわけではない。未来を見て行かなければならない。その未来も明るいとは限らず、何時、いかなる事態でこの世を去るかも知れない。
気管切開を受けたことで、病気に対する気持ちも変わってきた。以前の私は闘病、つまり病気と戦っているのだ思っていた。しかし今の私は病気と共に生きている。病気が宿るからこそ普通とは違った自分がある。そう思い、暮らすようになり、随分と楽に生きて行けるようになった。私は、一人の力だけで生きているわけではない。多くの人達に守られ、暖かい手に支えられている。しかし時折、自分の力だけで生きているような錯覚にとらわれるときがある。病棟での生活は何もしなくとも一日を終えることは出来る。しかしそれでは悲しすぎる。確かに見方によればそれも一つの方法、人にはおのおのの考えがあり、守られた環境で甘えて暮らすか、自分に厳しく暮らすかは個人の自由である。私は人に指示された生き方はしたくない。常に自分自身の力で切り開いて行きたい。そうしなければ死の瞬間が近づいたとき、後悔することだろう。
気管切開を受けて一週間後、パソコンに向かった。以前は、呼吸が思うようにできなかったために長時間パソコンに取り組めず、自分の思いをぶつけることができなかった。そのため初めに取りかかることは、自分の気持ちを文章として書き記すことだった。それはお世辞にも上手と言えるものではない。ただ思うがままに言葉を並べる。これまでこんなにも文字が恋しく、飢えたことはなかった。言葉が踊っていた。
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