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体に異変が
兄が永久の国へ旅立った翌年の秋、体に変化がおき始めた。体が何となくだるく、座っているだけで冷汗がでてくるのである。しばらくの間、単なる疲れだろう、そのうちにとれるだろうと耐えていた。冷汗が出るにもかかわらず耐えてるのには理由があった。
疲れるからといってそのまま寝てしまえば、起きあがることも車椅子に座ることもできなくなってしまう。寝たきりになってしまうのではないか、死を向かえるのではないか、という不安が脳裏をよぎり、どうしても床につくことができなかった。今、考えれば医学的には酸素不足と二酸化炭素が体内から吐き出せず、心臓の機能低下も重なった状態だったと想像される。この出来事を境にして車椅子に長時間乗れなくなった。しばらくの間寝たきり状態になり、気管切開を受ける日まで体外式人工呼吸器を使うはめになった。
呼吸器は、私にとって決して受け入れ難いものではなかった。機械を使用しなければ生き続けることが難しいとわかっていたからである。
まだ体に何の不自由も感じない頃、呼吸器用のコルセットを試しに作らせて欲しいと装具屋に言われた。その時も何の疑問もなく、素直に受け入れることができた。人工呼吸器を使用しなければならないことは、紛れもない事実であり現実であった。これは決して病気に対しての諦めではない。実際に呼吸器を使用し始めたのは、コルセットを作って半年もしない後のことだった。将来のために作ったはずのコルセットを、こんなにも早く使用することになるとは、思ってもいなかった。
装着時間を一日に一時間ほどからはじめ、次第に時間を延ばしていった。そして時間が長くなるにつれ、私の体が慣れて行き、消灯と共に装着し、起床と共に取り外す生活が続くことになった。呼吸器を装着すると何物にも代え難く気持ちがよく眠れるのである。
使い始めたばかりの頃は、体の痛みは感じられなかった。しかし、呼吸器は周期的に体をしめつけるために時が経つにつれ痛みを感じ始めた。私は、痩せすぎていることで体のあちこちが突出している。そのためお尻にゴム製の円座を当て、苦痛を取り除くことにした。しかしこの円座はゴム製のため私の痩せた体には辛かった。
呼吸器の音を初めて聞くと,とても大きく感じる。機械的な音ではあるが、この音を耳にしながら眠る時、生きているという実感が湧いてくる。
呼吸器を使用する前は、眠りに就くと寝汗が出たり息苦しかったりして、夜中に目が醒めことがしばしばあった。これは体が私に異変を知らせるサインでもあった。
呼吸器を装着するようになり、実感した言葉がある。それは、我慢と妥協。この言葉はいまだに、理解するまでは至っていない。それまで自分の中に嫌なことがあれば、言葉に出していた。そして我慢するということをあまり知らなかった。呼吸器を使用し始めたばかりの頃は、何者かに試練を与えられているかのように思えた。そして何故こんなに私だけが、辛い思いをしなければならいのかと思った。呼吸器を使用している人は決して自分一人ではないのだが。
自分の思い通りにコルセットやポンチョが装着できない時、幾度となく誰に言う訳でもなく、叫び、何かにぶつけていた。ぶつけても叫んでも、その怒りの答えが出ないことはとても悔しかった。苦しく辛い時、人は苦しさのあまり我が姿を思い浮かべるはことができはしない。まして装着してくれる人のことなどわかりはしない。私は思うように装着できないと、つい看護婦さんを怒鳴ってしまう。装着をさせる看護婦さんにとって、怒鳴られていることは、矛盾きわまりなく思えただろう。患者のためにしていることのはずが、怒鳴られてしまうのだから。看護婦さんのなかには、怒鳴られるのは仕事だから仕方ないと我慢している人もいる。時には感情をあらわにして怒り、他の人と交代してその場を立ち去る人もいる。怒鳴っている私は、装着してもらっているのだから、怒鳴ってはならないことは十分にわかっている。しかし相手にどうしても不満を表わしてしまう。その時、自分のしたことに情けなさと苛立ちを感じる。人は何事でも我が身に災難が降りかかった時、初めて自分が災いを相手に与えていることがわかる。痛みや苦しみはうわべだけではわかっても、深いところでは体で体験しなければわかりはしない。それはいくら医療関係者であろうとわかり得るものではない。お互いが理解し合えて初めて、装着も上手くでき、お互いの関係も良くなるのではないだろうか。
呼吸をすることが困難になるにつれ、私は車椅子に乗り、座っているとき体を揺するようになった。遠くの景色の見える屋根のある場所にたたずみいつものように遠くを見ていると、私が体を大きく揺すっているためか、挨拶をしているものと思い、頭を下げる人が多かった。人の姿が見え、姿が消えるまで体を揺さぶることを止めることもあった。なぜ体を常に揺さぶっているのかと思われるだろう。私は車椅子にすわるとき自分の体を支えられないために、体に支えるための帯、病棟では抑制帯と呼んでいるが、この抑制帯を胸の下に当ていた。抑制帯を利用して体を揺することで呼吸を助けていた。あるドクターから体を揺さぶることを、学会で「船漕ぎ呼吸」と呼ぶと聞いた。この呼吸法を私は教えて貰うことなく自然に自分のものにしていた。
体を揺さぶるという動作は、生活する中で支障を来すこともあった。例えば患者の自治会で七宝焼をした時のことだ。一つの机に材料を置き作業するのである。私は体を揺することで呼吸が楽であるために体を揺するわけであるが、作業している台も体を揺するたびに搖れる。一つの机で作業している人にはとんだ迷惑である。
病気が進行することでさまざまなところに影響がでる。特に食事をする時、飲み込みづらくなる。実際には詰まっているわけでもないのにまるで何かが詰まっているような感じである。食欲、空腹感はあっても、食べられないのである。食べたいのに食べられないのは辛い。自分の体であって自分の体でない。食べることは当り前の行為である筈なのに苦痛を感じる。食べ物が呑込み辛くなった頃、私は以前にまして食べ物に敏感になっていた。食べ物を前にして好き、嫌いの嗜好の他に飲み込み易いものか、そうでないものか、また飲み込んだ後、喉に残るものであるか、噛んだ後どのようになるか、などということを考えていた。例えば、ほうれん草などは、なかなか飲み込みのタイミングが難しい。噛んでいるうちに水分がなくなり、団子状になってしまい飲み込めなくなってしまう。そのため飲み込むことに勇気がいる。詰まったらどうしよう、窒息した場合を思い浮かべてしまい飲み込めない。以前、朝食に出されたほうれん草を何気なく食べ飲み込んだ時、詰まらしてしまい、声も出すこともできず悪戦苦闘したことがある。以来『ほうれん草』を食べる際は気を使うようになった。もやしも同じように気を使わなければならない。よく考えてみると、どちらの食物も共通点がある。どちらも繊維の多い食べ物である。他にも意識的に避けるものにピーナツがある。ピーナツというのは噛んだ後、粉々になり易い。それまではいいのだが、飲み損じると咳込んでしまう。いったん咳込むと暫くはとまらず、食事を続けることもお茶を飲むこともできなくなる。
ある日次のような出来事があった。その日の昼食は、素麺、鳥の照り焼き、ほうれん草のお浸しとデザートだった。介助を受けながら食事をとっていた。鳥肉を何の気なしに飲み込んだのである。何かの拍子で喉に詰まらせてしまった。回りには数人の看護婦さんがいたにも拘らず、詰まらせた瞬間誰も私の方を見ていず気づかなかった。私は声が出ず、目を白黒させていた。気づくまでのほんの数秒がとても長く感じられた。気づくとすぐに吐き出すことができるように看護婦さんが手伝ってくれた。何とかその場を凌いだが、吸引で刺激したせいかしばらくの間、何を飲み込むにしても喉の通りが悪かった。飲み込むごとに力を入れ、汗をかかなければならないほど飲み辛かった。そのため、数日間食事が取れず点滴を受けた。それでは私の食べ物に対する心得を述べたいと思う。
繊維の多い食物を食べる場合、まとめて食べない、飲み込むときは少しづつバラバラにする、ピーナツなどのナッツ類、ヒジキなどのように喉にへばりつき易いものは極力食べないようにする、美味しそうに食べている人を『羨ましそうな顔でじっと見る』。
食べたいものが食べられないというのは辛いが、自分を守るため仕方のないことである。自分の体でありながらとても腹立たしい。
コルセット型の人工呼吸器をおよそ3年ほど使用した。しかし呼吸困難が進行し、頭がスッキリとしないためにポンチョ型へ変えることにした。私は、初めつけていたコルセット式に比べポンチョ式は、とても寒いということを感じた。この寒さというのは、ポンチョ内が陰圧になるために少しでも空間ができると風が生じるためである。私がポンチョ型を使用した際、我慢をしなければならないことがまだある。それは尿である。尿をすること自体はさほど問題ではない。私は、ポンチョの中に尻に当てるスポンジも入れていた。そのスポンジが尻の部分の所まであるために尿をするたびに、面倒であるがそのスポンジを取り外さなければならない。ポンチョ型に変えてからは、以前のようなボーッとするような気分はなくなり楽になった。
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