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兄が永久の国へ


「敏秀君、敏秀君」と看護婦さんの呼ぶ声に目が覚めた。目が覚めたとき、なぜ私を揺り起こしたのかすぐに察しがついた。数日前から兄の正明が体調を崩し、回復室で治療を受けていたのだ。そして、いつ死が訪れてもおかしくない、危険な状態だったのである。
 いよいよ来るべき時が来たことを思いながら兄のいる回復室へと向かった。部屋へ行くとそこには、泣きはらし目を赤らめ、涙を浮かべた母と、婦長さん、そして白い布で顔を覆われた兄の姿があった。すべてを白で覆われた兄を見たとき、涙は溢れてはこなかった。そしてなぜか異常とも言えるほど冷静であった。
「死因は何ですか。心不全、呼吸不全」
 何よりも先に、部屋にいた婦長さんに死因を尋ねた。婦長さんは何も答えなかった。兄の方に目を移すと吸引器で吸い取られた死闘の後の鮮血が、異様とも思えるほど赤く、目に飛び込んで来た。兄の表情は白さはあったものの隠やかで、黄泉の国へ旅立った人はとても思えなかった。兄と共に記念写真
 兄が死をむかえる前、この最悪の事態を予感する出来事があった。宮崎の整肢園と、この病棟を通じて一度も面会に来なかった親戚の人が、訪れたのである。
 人がその生涯を終えるとき、予期せぬ出来事が起きたり、異常な行動をしたりするという。それが実際に、起きたのである。
 面会のあった数日後、兄は体調を崩し、二度と自分の部屋に戻る事なく、この世を去った。
 兄が病に立ち向かっているというのに私は、兄の元へ行くことができなかった。兄が観察の身であるのが、とても心配であるのは人一倍だった。回復室の前を通る度、兄に対しすまないという気持ちが、抑えきれないほど沸き上がっていた。また看病に来ている母は、廊下ですれ違うたびに、私の体の具合をたずねた。母のどうすることもできない気持ちは、痛いほどわかった。そんな母の胸の痛みがわかっていながら、それでも私は兄のもとへはなかなか行くことはできなかった。兄の容態が悪くなった、亡くなる一週間ほど前の昼過ぎのことだった。兄がいよいよ危ないという時、私を看護婦さんが連れにきた。兄の元へ行くと、兄の命をつなぎ止めようと、懸命な努力がはらわれていた。兄と目があった瞬間、兄は私に何か言いたげだった。私はその視線に促されるように声をかけた。「頑張れよ」と一言しかいうことができなかった。兄に呼びかけた瞬間、看護婦さん達の視線が一斉に私に注がれた。
 私の声が兄の耳元に届いたことが功を奏したのか、医学の力が奏したのか。その日は何とか難を越すことができた。
 それからしばらくは小康状態が続いていた。私は兄のもとを訪れた。その時の兄の姿は、本来の健康の状態の表情とさほど変らなかった。普段と違うところといえば、鼻から気管に管を挿入されただけだった。そのため、話すことはできなかった。兄の手を握るととても温かった。その間、ひっきりになしに呼吸を助けるための補助呼吸がされていた。兄の呼吸にあわせて、胸を強く押しては離し、押しては離し。看護婦さんや母、おばさんが交代でベッドの上にあがり両手で押し続けた。それから二日ほどの後、帰らぬ人となった。死亡後の手続きが終わると、兄は母や親戚と共に故郷えびのへと一足先に帰った。通夜は叔父(松元四男)宅で行なわれるということで、私は病棟の職員数名に連れられ、叔父宅へ行った。
 到着すると葬儀の用意が済み、大勢の人々が集まっていた。祭壇には、在りし日の兄の肖像が飾られ、花と共に華やかであった。
 葬儀の日は朝から寒く、時折雪がちらつく暗い日であった。兄の死を悼んでいるかのようだった。参列の人で叔父の家は一杯であった。葬儀が始まり読経の流れるなか、兄が小五、私が小四の夏の出来事を思い出していた。
 私達は時折、母がどうしても家を空けなけならない時、二人で留守番をすることがあった。朝十時頃のこと、二人でテレビ見ながら話をしていると、何処からともなく一匹の蜂が飛んで来た。そして間もなく、兄の足に止まった。蜂はとても大きく、よく見ると雀蜂のようだった。
 蜂が止まると同時に、兄は「恐い」と言った。私は、何とか蜂を追い払おうと、初めは虫捕り網に手を掛けた。しかしとても恐ろしく捕まえることなどできはしなかった。私はどうしようもない弱虫なのだ。次に帽子を持った。しかし気持ちは網と同じ。そして棒を持った。やはり同じなのだ。次々に物を替え品を替え、色々な物を手に取りどうにかして追い払ってやろうとした。しかし相手が大きな蜂ときている。失敗した時のことを思うと、手だしはできなかった。結局私にはどうすることもできず、天に運を任せ蜂が飛び去るのを待つしかなかった。
 それからどのくいの時間が過ぎたのか、暫くすると、蜂はどこかに飛び去り難を逃れることが出来た。私達はそれと同時に息を吐いた。すすり泣く人々の声をよそに、兄との思い出を振り返っていた。
 時に、昭和六十年一月二十四日小雪の舞う寒い午後だった。

 兄が死んだ

兄の死に顔を見た時兄
なぜか涙はなかった
そのときふと心の片隅をよぎったものは
これで良かったのだという
冷酷、非常な言葉であった
しかし、憎かったわけではない
私を思いやってくれた人のはずなのに
なぜか涙はなかった
かつて彼は私の比較の対象物であった
しかし、そんな彼は私にとてもやさしかった
人は皆、そんな彼を仏のような人といった
私は、彼にとっては
世話のやける弟であったにすぎないだろう
それから4年
過ぎ去り始めたときは速く
思い出を語れば言葉が足りず
夢の時に懺悔の言葉を吐き続ける
そんな自分は何を悔やんでいるのか
今になって
私は彼が偉かったことに気づいている
今、私の目指すものは彼でなく
私でなければ持てないものなのである

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