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病棟での授業

 昭和五十五年、指宿養護学校加治木分校から加治木養護学校へと独立するとともに、高等部が開設されると聞かされた時、バラエティーに富み趣味をいかした授業を期待していた。しかし現実は甘くはなかった。始まってみると、聞かされていたことと随分と話が違い、出鼻をくじかれた思いがあった。しかし中学部卒業以来の授業であり、とても新鮮な気持ちで受けることができた。私のクラスは三人であった。家族的な雰囲気が漂う暖かさを持っていた。
 養護学校での生活に、不満に思うことがあった。一応生徒の自主性は尊重しているかのように見えた。しかし最もやりがいを持つところで尊重されていなかったような気がする。それは、クラブ活動ではなく、図書部や生活部といったような生徒会活動においてである。 
 生徒会活動で私は図書部に属していた。学校図書の購入の際、顧問の先生の考えなのか、それとも生徒の力の及ばぬところなのかわからないが、生徒の意見は取り入れてもらえず悔しい思いをした。
 高等部は中学部での授業の集中度から言えばレベル高いものではなく、むしろ楽なくらいだった。好きな科目は一生懸命に授業を受けていたが、苦手なものには態度は決して良くはなかった。時には授業を教える先生が、嫌な気持ちをもったこともあったと思う。
 養護学校での二年間には、苦しいことばかりでなく楽しいこともいくつかあった。
例えば、選択科目である。私は初めの一年は美術を選択した。絵を描くことや工作することは好きだった。しかし器用ではなく工作は上手くはなかった。絵では油絵を習った。これも決して上手くはなかったが、とても好きだった。こうして昭和五十六年に加治木養護学校高等部を卒業した。 
 養護学校は私のように普通校に進学しないものにとっては、人生の消化に過ぎなかった。こう言えば教えて下さった先生方は、気を悪くするかも知れないが、今の私には学んだものはさほどない。確かに養護学校で得たものはあると思う。しかし現在の私を作っているものは、学校教育が終わってから得たものが大部分である。
 
 養護学校で学ぶのは、われわれ筋ジス児ばかりではない。慢性の病気の子もいれば、重心病棟の子供たちもいる。しかし、筋ジス児の受ける授業と言えば、一般慢性の子供達や普通校に進学を目指すためのカリキュラムがほとんどであり、我々筋ジス児は高等部を終えると、時間的余裕の多い生活を送ることになる。そうなった場合、養護学校に行ったことでためになるものはさほどない。養護学校を終えてしまえば、時間の余裕を穴埋めするためのものを、あらためて見つけなければならない。できることなら、養護学校では生きがいの助けになるようなカリキュラムを組んでほしい。一般慢性の子供達とは別のカリキュラムが望ましいと思う。
 ただ養護学校に通うことが決して無駄とは思わないが、高等部を終えた後の余暇時間の過ごし方の助けになっているとは決して言えない。一般の学校では進路相談というものがある。養護学校にないわけでもないが、あったとしても何の役にも立たない。私のようにある程度計画の立てられる者ならまだよいが、そうでない者にはしばらくの間空白になってしまう。養護学校に普通校と同じ様なカリキュラムを組むことにどんな意味があるのか。とにかく私にとって養護学校の授業は、単なる通過点に過ぎなかった気がする。
 気がつけば病状が悪化し、無気力な状態になってしまっているのではないかと思うのである。人間、何かに真剣に取り組んでいる時、苦しさや辛さは自覚しないものだ。  
 一般的には趣味とは余暇に行なうものである。しかし、私のように仕事というものを持たず暮らしている者は、趣味イコール仕事ではないかと思う。そう思うことで自分の中にある迷いが、晴れて行くような気持ちで楽になった。人間、誰しもいま自分のしている事に意義を探したがる。しかし決して答えが出るものではない。その答えを出したからと言って、その答えは何の意味も持ちはしない。これは理屈ではない。やっている自分が満足しているかどうかである。

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