表紙 前へ 次へ 最後 目次

足が重いのなぜ

 次第に歩けなくなる日が近づいてきた。風邪でベッドに伏すたびに、歩くことが困難になっていった。それでもどうにか頑張ればしばらくの間は歩けていた。父がこの世を去り一年半ぐらいした頃、どうにも歩くことができなくなる日が来た。
 足に力が入らず、自分の足ではないような気がした。訓練の時間になると歩行器につかまり、看護婦さんに見守られながら、一歩、一歩と歩を進めようとするが動かない。全く動かないわけではない。亀の歩みほどの速さではあるが、前に進むことはできた。その歩き方を説明すると、まず右足に体重をかけ、それまで右足にかけていた体重を左足にかける。これを繰り返しながらバランスを取りながら前に進むのである。右利きである私は右足は何とか体重を支えることはできたが、左足は力を入れてもしっかりと立つことはできなかった。五メートルと歩かぬうちに、崩れ落ちてしまう。それを何回も繰り返すと、私の足はコンニャクにでも変化したかのように、全く私の意志とは裏腹に動いてくれない。その感じは、けだるさと、重さが入り交じり表現することが難しい。自分の体でありながら、どうにもならないという何とも言えぬ虚しさと悔しさが交錯していた。
 そんな毎日がどれだけ続いたか。ある日、バネ付き装具(下肢装具にバネが取り付け歩けるように工夫した装具)を使い、歩くことに挑戦することになった。右足を動かす場合、左足に体重をかける。すると体は左に傾き右足が上がる。その時、バネの反発により足を踏み出すのである。これを繰り返し歩行するのである。自分の力だけで自由に歩ける時は、歩く方法など全く意識することはなかった。しかしバネ付き装具をつけたことで、歩くという動作を意識するようになった。
 最初は装具に慣れることと、足を踏み出す感覚をつかむため、平行棒で練習を続けた。私は少しづつ足を踏み出すことを覚え、いつしか介助者に付き添ってもらいながらではあるが、自分の足だけで再び大地を踏みしめることが可能となった。天にも昇るほどの気持ちで、この嬉しさを誰かに聞かせたくて仕方なかった。そして毎日が、歩くことが待ち遠しかった。
 そんなある日、確か日曜日の午前中だったと思う、本来ならば介助者である看護婦さんがいる。しかし装具を装着し歩く準備が整った時、看護婦さんが他の用事で呼ばれてしまい一人になった。その時そのまま誰の介助もなく自分だけで歩けるような気がした。そして独りだけの歩行を決行した。動き始めると、いつもにまして体の動きが良く、体重移動も上手くいき、気がついたときには五十メートルほど歩いていた。いつもは三十メートル位であることを考えるとこの日歩いた距離は私にとっては最も重要な距離であり、いまだ忘れることができない。
 この時は体の調子も良く、転倒することの恐怖心など心の片隅にもなかった。人間、幸福の絶頂の時に悪夢など考えることはしない。ところが予想だにしなかった悪夢が訪れる日が来た。その日も、いつものように歩行訓練をしていたが、訓練の先生が、もう片方の足をもう少し上げた方が良いといわれたので、何のためらいもなく上げてみた。自分では足を少し上げることなどたいしたことはないと思っていた。しかし予想に反し、僅かばかりの体のバランスの変化によりフワリとした感じとともに、突然、衝撃と強烈な痛みが走った。辺りにはけたたましい声が響き渡り、私は床に叩きつけられ、胸と顎を強打した。顎は奥へ引っ込み腫れ上がり、暫くはまともに食べることもできず、流動食を食べるはめになった。私はお粥が嫌いで一、二回で流動食を止め、痛みに堪えながら普通食を食べた。この事件の後、再び立つとまた同じことを繰り返すのではないかという思いが浮かび、恐くて、以来バネ付き装具をつけて歩くことを放棄してしまった。もし順調に行けば、バネ付き装具で一日の大半を過ごすはずであったが、水の泡と消えてしまった。
 思えば、自分の臆病さを認識するとともに、訓練の先生の期待も裏切る結果となり、もっとも後悔の残る事である。しかし装具を付けて僅かの期間でも長く自分で歩けたことは大きな喜びだったし、また苦闘の時期は大事な思い出となっている。

表紙 前へ 次へ 最後 目次