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親元を離れて

 今年(一九九二)で病歴二十五年になろうとしている。これまでに現在いる病棟を含め、三回の入院を経験した。
 はじめて入院したのは、大分県別府市にある国立西別府病院の筋ジス病棟。小学三年のことだった。
 別府の病院へは列車で行った。海を間近に走る日豊本線はとても楽しく、目を見張る風景だった。また、一度も故郷を離れたことのなかった私は、生まれ育った町が遠く離れて行くことが嬉しかった。病棟では約三カ月過ごすことになった。
 病棟は別府市内を一望できる高台にあり、夕闇が迫ると夜景が美しく見える絶好の場所だった。
 筋ジス病棟には兄も一緒に入院した。ここでの生活で覚えていることいえば、病棟の隣に壊れかけた病棟らしき物があったこと、病棟の住人と喧嘩をしたこと、看護婦さんにおぶさり、初めてエレベーターに乗ったことなどである。なぜ、この病棟をわずかの期間に去ることになったのには、ある訳があった。
 筋ジス病棟に入院すれば一通りの検査が待っている。筋肉や血液検査である。筋肉の検査は筋生検と呼ばれるもので、足や腕の筋肉の一部を切りとって検査する。医者にとっては普段通りの検査であろうが、親の許可もなく行なったことに父が怒り、医師への不信感ともなり退院することになったのである。
 振り返ってみれば、ここでの生活は決して無駄ではなかった。なぜなら、家にいては見ることの出来なかった海や、自分と同じように病気を持った人達がいることを知った。病棟での三カ月の間、思い出らしきものを作らないまま、病棟を後にした。
 故郷に帰り私達兄弟は、地元の学校へ通うようになった。私にとって地元の学校は見慣れたところであるが、兄にとっては初めてだった。
 小学校に通うことには、障害があった。その頃私は歩くことはできた。しかし兄は歩くことが出来ず父と母は困っていた。そこで町にある自転車屋に、手押しの三輪車のお化けのような特製の自転車を作ってもらい、天気のいい日は母が自転車の後ろを押し学校へ通った。雨の日は、家のすぐ下を国道が通っていて、幸いなことにバス停が近くにあり、学校まで通った。私は歩くことはできてもバスには自力で乗ることはできなかった。自力で乗るには、四つ這いで乗らなければできなかった。そのため母は、手で私の体を抱え、兄を背負いバスに乗り込んだ。こんなに大変なことを長い期間続けられた母には敬服するばかりである。
 昭和四十七年七月に起きた山津波が起きたことが、二度目の入院の大きな要因である。この時、母は体調を崩し町の病院に入院しており、家には、私達兄弟と父の三人がいた。その日は、集中豪雨のために地盤が緩み、それに伴い地滑りが起き災害となったのである。上流にある幾つかの砂防ダムを壊し幾人かの犠牲とともに時のニュースになった。災害が起きた直後父のとった行動は、いまでもハッキリと覚えている。
 私の部落は、災害が起きた場所に水源地を持つ共同水道があった。災害が起きたために家のすぐ下を通る国道を避難する人々の姿を見ると父は、空の一升瓶を水道の下に置き、避難することを急ぐよう騒ぐ私たち兄弟の言葉を尻目に、『この水道の水が出なくなったら避難しよう』とひとこと言った。
 私たちの部落の辺りには、『一っぺ茶』という言葉がある。どの様な意味かと言えば、私は次のように考る。『人間慌てると精神的に混乱をきたす、そのため、一杯の茶を飲み気を落ちつける』ということで昔の人が言ったのだろう。それから数分の後、水道が止まった。父は私の手を曳き、兄を背負い避難した。道路と家を結ぶ道は、山のすぐそばに家があるために道のあちこちから水が勇きだし溢れ、スムーズに通ることはできなかった。そして避難途中のトラックに便乗させてもらい母の入院する病院へとひとまず向かった。
 その夜、病院のTVの災害を伝えるニュースを見ながらこれからの行く末を考えていた。この災害と母の疲労など相まって、私と兄は小学校に通うことができなくなり、宮崎市内にある県立整肢学園に入園することになった。私にとって入園は初めてある。しかし兄にとっては二度目であった。
 兄には以前入園していた時の友達がおり、苦労はしなかった。私は人一倍好奇心旺盛ということと人見知りの少ないせいか、友達を作るのには骨を折らなかった。この施設で大丈夫ということを見届けると、父と母は家へと帰って行った。
 ここでの生活は楽しかった。この園で初めて同じような病気の人を見ることになった。またさまざまなことを知り、さまざまなことに興味を持つことになった。
 私の家は山奥ということもありザリガニを見たことはなかった。ある時、園の指導員の先生達と近くの田んぼにザリガニ取りに行った。この時初めてザリガニというものを知った。
 この園で最も興味を持ったのは園芸である。入園したときの養護学校の担任は『甲斐 芳』先生といった。私はこの先生が大好きであった。先生は園芸の担当だった。この先生に出会わなければ花に興味を持つはことはなかっただろう。田舎が山間部ということもあり、幼い頃から自然に親しんで来た。自然のなかに溶け込んで時の移り変わりとともに生きてきた。そのため知らぬ間に、私の中に自然の花が、草が、木が体の中に染み込んでいる。自然は生まれたときからの友達であり、心のよりどころでもあった。
 自分の病気の名前を知ったのはこの整肢学園でのことである。たまたま覗いたリハビリのカルテをみて自分の病名を知った。どのような経過をたどるのかはのちに辞書で知ることになる。
 この園で忘れられない失敗がある。クリスマスパーティーでの出来事である。私の出演したのは遊戯であった。役柄は寺の子坊主で白い上着、ブルマーをはいていた。そして本当なら音楽に合わせ床から立ち上がるのだが、私の場合すぐに立ち上がることが出来ない。そのために椅子を使ったのである。遊戯が始まってみると初めは順調に進んだ。しかし、ハプニングが起こった。履いていた筈のブルマーが立ち上がったと同時に落ちてしまった。それを見た場内からは笑いが起こった。その瞬間、何が起きたかはわからなかった。ブルマーが落ちたことがわかったとき既に遅かった。
 この園では初めてみる物や体験したことは多かった。その中に海との関わりがある。初めて目の前にある海の水を見たことと海水浴である。私の生まれたところは、四方を山に囲まれていて、海を知らなかった。海を見ることも海水に触れるのも初めてであった。その機会が訪れたのは、散歩の時であった。私の居た県立整肢学園は、宮崎市の赤江という所で、宮崎の観光の名所である青島や堀切峠、サボテン 公園に行く途中にあった。園から一キロぐらいの所に日向灘に面した赤江海岸がある。
 時は夏であった。汗を流しながら歩いた。夏の何処にでもあるような風景の中を三十分ほど歩き、海岸に近づくに従い木が低くなるのを見ながら、赤江海岸へと近づいた。疲れが見え始めた頃、塩の香りと共に松の濃い緑が目に入るようになり、遂に海を見たのである。見た瞬間、長い距離を歩いてきたことの満足感と広い海を見たことの感動が私の中に満ち溢れていた。
 園にいるときの私は風邪をひきやすく、熱を出しては解熱剤である『メチロン』なるものを打ってもらっていた。ある時私は風邪をひき、一週間ほど寝込み、自力で立ち上がれなくなった。床から立ち上がると言うことは普通の人からしてみれば何気ないことである。しかし自力で立ち上がれなくなることは、私にとってとてもショックなことであった。立っているときは何の違和感はなかった。しかし、何かの拍子に座り込んでしまい、何の気なしに立ち上がろうと足を後ろに延ばし、おしりを持ち上げ膝に手を置き体を起こそうした。しかし体を起こすことはできなかった。それを知ったときは泣くに泣けずとても悲しかった。できないはずはない、と我が体を疑いながら幾度となく挑戦してみても、事態は変わらず、ただ空しく天を仰ぎ見るばかりだった。
 この園で過ごした一年半、数多くの経験と様々なことを知ることができた。そして素晴らしい人に出会うことができた。整肢学園や病院という特殊で閉鎖的な場所でしか生きて行けない者の一人として、色々な出来事が目新しかった。また入園したことで様々な障害を持った人がそれぞれの力で精いっぱい生きる姿を見た。外の世界で暮らす者だけが生きるということが全てではなく、ここにも確かに命があり、生の営みがあり人生があるということをあらためて知った。
 そして小六の二学期、私にとって三度目の入院をした。
 入院したのは、忘れもしない昭和四十九年九月九日午前十時、天気は晴れ、私たち兄弟の入院を喜んでいるようであった。
 初めて目が合ったのは今は亡き、小林節夫君だった。笑顔が印象的で今でも忘れることはできない。彼は私と同級であった。
 私は持ち前の人慣っこさと以前の集団生活の経験から、すぐに病棟の生活に慣れることができた。
 病棟に来た当時、病院の周りは薮が多く、遠くの方には田んぼも広がっており、今見える風景とは随分異なっていた。
 病棟の最初の印象は、雰囲気がとても明るいことだった。私の周りの人が自分と同じ病気であると思うと、とても勇気づけられ、それまで自分の中にあったわだかまりや不安が一気に晴れた。
 私には一つ違いの兄がいて、兄弟同じ病気ということもあり、そして以前他の施設にいたという経験も伴い気持ちは安定していた。これが入院することが初めてで、一人であったなら感じ方も違っただろう。私にとって頼れる兄の存在は大きい。その当時私は歩くことができた。しかし兄は既に歩くことはできず車椅子での生活であった。この病棟に来て何よりも嬉しかったのは、自分と同じ様な体型で同じ様な格好をして歩いている人の姿を見る事ができたことである。これまで自分の歩く姿は変で、特殊だと思っていた。しかし、筋ジスという病気の専門の病棟にきたことで、歩き方がおかしいのは自分一人ではないことがわかり嬉しかった。歩行ができたのは、それから二年半ほどである。
 中学部入学の昭和五十年四月、病棟に付設の養護学校に入学した。この年、鹿児島県立指宿養護学校加治木分校として再出発を始めるときであった。中学時代の同級生
 担当になったのは、榎木園哲子という先生だった。その先生は、フォークソングが好きで、学級会など機会あるごとに、自分でフォークギターを弾いてくれた。その時クラスの皆で良く唄った歌は、『戦争を知らない子供達』というとても明るい調子の歌だった。 私は幼いときから歌は好きだった。当時の私は、歌謡曲よりもフォークソングがことのほか好きだった。あの頃は『かぐや姫』というグループなどが好きだった。学級会の時、先生が、ギターと一緒に持ってきていたギターコードを写したノートを初めて見せくれた。僕はどんな曲が書かれているのかゾクゾクしながら見たことを覚えている。
 私の中で遊びの占める割合は、とても大きい。殆どが遊びである。中学時代の同級生
 その頃よく、病棟の皆で作った特別のルールを使って野球をしていた。歩ける人、車椅子でする人も各々で楽しんでいた。大事なこともそっちのけで、遊びに興じていた。遊びとなると皆真剣で、時の経つのも忘れていた。
 これまでした遊びはというと、病棟の皆で独自で編み出したルールの下で行なう野球、ゴルフ。他にも囲碁、トランプ、オセロ、麻雀など挙げればきれりがないのでやめておくが、本当にありとあらゆるものを楽しんだ。こう書くと遊びばかりしているようだが、実際そうである。
 私はあまり勝負事は強くなれない。勝負事には向かないようで何をしても駄目なようである。まあ普通にはできるのだが。

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