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昭和三十七年十二月、宮崎県に三人兄弟の末っ子として生まれた。えびの市は周りを山に囲まれ、これといった産業のない片田舎町である。
母は土木工事に通い、 父は私が物心ついたころには、穴堀り(トンネル)専門の出稼ぎ家業であった。年間のほとんどを県外の現場で過ごし、帰省するのは盆、正月ぐらいであった。父は、作業現場での事故により、右腕の肘からと左手の人差指と薬指の半分がなく、目には偽眼を入れていた。
父は現場から帰って来ると、不自由な手で私たち兄弟を風呂に入れてくれた。
「敏秀、痒いところはないか」
「後ろ、もうすこし右」
「目をしっかり閉じとけよ」
「うん」
「正明、まだ上がらないか」
「もう上がる」
「温もったか」
「温もった、上がる」
不自由な手で器用に私の体を支え、背中を擦ったり、頭を洗ったり、浴槽に入れたりしてくれた。それが僕にとって一番嬉しいことだった。
父は土方を専門にしているだけあり、腕や足は大きく、体はがっしりしていて、腕を見なければ障害を持つ人には見えなかった。
「とうちゃんの知っている人で、片手で車を運転をしている人がいるから、そのうち免許を取ってお前達を乗せてやるから」
「うん、待ってるから」
そんなたのもしい父が出稼ぎ先から時折、手紙をくれるときがあった。
父親のいない寂しさを思ってか、その内容はとても明るく、仕事の様子や出稼ぎ先の景色、帰省できる日など様々なことが書いてあった。
父からの手紙がくると私達兄弟は、父の帰省の日がとても楽しみだった。母から父が来る日を知らされると、土産は何を買ってきてくれるのかと心待ちにしていた。
帰省する日がくると、駅の改札口に迎えにでていた。私の住む所は、鹿児島、宮崎、熊本の県境に接し、鹿児島から熊本につながる肥薩線が走っている。
北は熊本、南は鹿児島ということで、父を乗せる列車は北の方向から現われるのである。
父を乗せる列車は、なかなか来なかった。その待ち時間の長いこと。列車が到着するたびに中を覗き、出入口に気を配っていると父が現われる。時には、列車が到着しても父親の姿が現れないときもあった。そんなときほど寂しいことはなかった。沈んだ気持ちを胸に家へと向うこともあった。父の帰省を諦め、家に帰り一息ついていると、聞き覚えのある懐かしい声と共に姿を現わすこともあった。その姿を見るのは、何とも言えず嬉しく恥ずかしささえ覚えることがあった。
帰って来ると何よりも真っ先に、いつまで家にいられるのか、気がかりだった。そして帰省するたびに、流行のゲーム、レーシングゲーム、ボーリングゲーム、野球ゲームなど買ってきてくれた。土産のゲームは、近所の友達は持ってなく、私の自慢であった。
家族を故郷に残し、現場へと出かけて行く父、いつも家族の肖像が心のどこかにあったに違いない。離れていても家族は家族、まして障害を持つ子供を二人も抱え、胸が痛かったことだろう。
いつも故郷にいない父は、初めて兄が筋ジストロフィーという難病とわかるまで、兄を連れ鹿児島や宮崎の病院へ通った。時には朝まだ暗い内に列車に乗り込むこともあった。母は父以上に苦労があったと思う。
最初の子供である姉は、何の障害もない子供であり現在も健在である。そして兄、私と三人の子供が生まれた。
兄は何の障害もなく生まれてきた。しかし兄が五歳頃になろうとした時、何やら得体の知れない病が頭をもたげ始めた。そして検診を受けてみると、筋ジストロフィーという治療法もわからない、不治の病であることがわかった。またその後に生まれた私までが、同じ病に冒されているとは思うはずもなかったろう。 幼い頃、家の庭先で兄弟並んで撮った写真からは、障害を持つことになろうとは誰が想像できたであろうか。
兄の病名がわかる頃には、私の病気の症状もはっきりではないが、現れ始めていた。坂を上がる時、母や祖母に引っ張ってもらっていた。幼い子供がお母さんに物をねだるかのように、大人の腕に下がるようにつかまり登っていった。その姿を見て周りの人達は、私も同じ病気であることをささやいていた。そんな言葉を耳にするたびに母は病気に対する恨み、障害を持った子どもを産んだことの後悔が入り交じり、辛かったことだろう。
日頃から明るい母は弱音を吐くことはなかった。それよりも増して出稼ぎで家を空ける父に代わり、家の留守を一人で預かり、そして病気を持つ私たちを育てて行くには並み大抵の苦労ではなかったと思う。
強い母に育てられ見守られ、父がいないことはさほど寂しいと思うことはなかった。母にしてみればそれは心細かったに違いない。表紙 前へ 次へ 最後 目次