こんなことを言うと「何を言うか」と思われるかも知れないが、敢えて言うが、障害者の全てとは言わないが、「障害者」という壁を作っていると思う。自分の中に障害者という壁を作り、殻に閉じこもっているのではないか。つまり差別、偏見と言いながら、一方で自身で差別、偏見を持っていると思う。だから「障害者」という言葉に敏感になり、呼び方や文字を変えるなど見せかけに拘っているのだと思う。
確かに社会においては差別や偏見はあるだろう。それ以外にも計り知れないことは存在するだろう。しかし差別や偏見を受けているのは何も障害者ばかりではないだろう。健常者であっても病気などにより差別を受けている人たちもいる。
そもそも人には悲しみや問題、悩みに浸りたがる傾向にあるらしい。その中には障害や病を憐れんで欲しいとどこかで望んでいたり、悲劇のヒロインになりすましている人もいる。それらに該当すると思われる人が時として見受けられる。そんな人を見たり、聞いたりすれば悲しくなる。このことはマスメディアにも言える。障害や病を持つ人たちは、それぞれの状況に応じ、普通に暮らしている。なぜかドキュメント番組の多くが、お涙頂戴の障害や病と共に暮らす人々をヒーロー、ヒロインに仕立て上げている。それぞれの人生や暮らし、直面している困難や問題を抱え、悩んでいる人はいるかも知れない。しかし大半の人は様々な問題などはビクともせず平気に暮らしている。番組の意図している障害や病と共に暮らしや存在を知らしめ、障害や困難に対した様子に共感を得るためというのは理解はできる。また感動や共感することはとても大事なことであり、必要なことである。しかし一時の共感や感動は長続きはしない。それと同時に見なければならない問題や問題に潜む真意さえ薄れ、消え、見ることさえできない。このようではあまり意味をなさない。そうではなく、きれいな部分ばかり捕らえ
るのではなく、人間の隠れた裏を捕らえて欲しい。そうすることで問題の本質に真剣に向かい、考える。
最後に差別や偏見をなくそうと言うのであれば、自身の中から差別や偏見を追放することだ。そうすることで障害者という壁も低くなるのではないだろうか。障害者も健常者も私のような社会の厳しさを知らない寝たきりも心の部分は変わりはないと思う。ただ障害によって自由にならず、人の手を借りなければならないというだけであって、心の痛みを感じるのは同じなのである。
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